2008年3月15日に行われたダイヤ改正は、貨物輸送の第二の大転換期といってもよいかも知れませんでした。
第1の転換期は、1984(総和59〕年2月に行われた、いわゆる「ゴーキュウニ」では、貨物駅の大幅な整理と車扱貨物の原則廃止、そしてコンテナを中心とした拠点間輸送へシフトしました。
そのために、全国各地にあった操車場は、その大小を問わず機能停止・廃止への運命を辿っていきます。
この当時、貨車の大多数を占めていた有蓋車は、ほとんどが用途を失い廃車になっていきました。一大勢力を誇ったであろう、ワラ1もこのダイヤ改正を目前に用途を失い、17000両以上が製造されたにもかかわらず、JRには1両も継承されませんでした。
貨物輸送の主役は、それまでの有蓋車など車両単位での輸送から、コンテナを基本とした拠点間輸送に代わったのです。
とはいえ、民営化後も規模は少なくなったとはいえ、車扱輸送は続けられていました。筆者が所属した電気区管内では、横浜の食糧庁サイロから米穀輸送用にクリーム色に塗られたホキ2200や、昭和電工のアルミナ輸送用のホキ3000が、新興駅を発駅として運転されていました。
しかし、貨物会社としては、手間も暇もかかり、輸送コストのかかる車扱輸送はできるだけ削減したかったのでした。そのため、荷主にはコンテナ輸送に切り替える提案を行い、必要であれば荷主の要望に応じたコンテナの開発なども行います。
こうして、少しずつとはいえ、車扱輸送からコンテナ輸送への転換が進んでいきます。
2008年のダイヤ改正では、残存する車扱貨物にメスを入れました。
貨車はご存知の通り、非常に多くの形式があります。
有蓋車に無蓋車、ホッパ車にタンク車、冷蔵車などなと、大まかに分類しただけでもワム80000で運んでいた紙輸送はコンテナ化されました。化学薬品を積んだ黄色いタキ5770などもまた、新型タンクコンテナを開発して、コンテナ輸送へシフトさせました。
車両もまた、石油類や石灰石など、一度に大量の貨物を運ぶために同じ形式の貨車で1列車を組成できる列車を除いて、原則として1両単位から輸送をする車扱貨物列車は廃止になり、その多くがコンテナ輸送へと切り替えられるか、トラック輸送に変更されるなどしました。
この施策によって、貨物会社が推進してきた貨物列車の効率化をほぼ達成し、収益の増加へまた一歩進めることができました。
そのような中にあって、石炭を運ぶホキ10000はまだまだ健在でした。
かつてはセメント工場で使う石炭を運ぶために、ホキ10000は関東では秩父鉄道武州原谷駅を、北陸では北陸本線青海駅を常備駅として活躍していました。これらは石炭という単一の貨物を、同じ形式の列車を組成し、拠点間輸送が可能であるという理由もあったと思えます。
しかし、何よりホキ10000を取り巻く状況が変わった、ということもいえるでしょう。
今回廃止された扇町駅-武州原谷駅間の石炭輸送は、もともとは秩父セメントが荷主でした。その名の通り、埼玉県秩父地方にあるセメント製造会社で、秩父山塊で採掘される石灰石を原料に、セメント製造を手がけていました。
ところが、バブル経済が崩壊してから、セメント需要も減少していきます。1994年に小野田セメント(こちらも、貨物会社の大口顧客だった)に吸収され、秩父小野田になります。さらに1998年に、浅野財閥系だった日本セメントと合併し、今日の太平洋セメントとなったのです。(貨物会社内では、社名が変わっても「秩父セメント」で通ります)
荷主も変わり、経済状態もほぼ停滞したまま。オリンピックを睨んで、首都圏では建設ラッシュがあったにせよ、それは期間が限定されたもので、そう長くは続きません。セメントの需要もこれまで通りというわけにはいかないでしょう。
そのような中、ホキ10000自体も製造から40年近くが経ち、老朽化も進行していました。
これはあくまで筆者の推測ですが、貨車の老朽化によるリプレースが必要なこと、先細りする需要に対して1列車を仕立てるほどの石炭が必要なくなること、トラック輸送でも事足りることなど、いくつかの要因が重なり合って今回の廃止にいたったといえます。
いずれにしても、鉄道輸送が強いといわれた「3セ」のうち、「石炭」の輸送がこれで完全になくなってしまったのです。(残りの「セ」は石油と石灰石。前者は関東を中心に、後者は名古屋圏で行われている)
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