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1987年の国鉄分割民営化はまさに、日本の鉄道にとって「天変地異」にも等しい大事件といえるものでした。1872年に当時の新橋駅−横浜駅(旧汐留駅−桜木町駅)間に日本で初めて鉄道が開業する前年に設立された工部省鉄道局以来、後身の帝国鉄道庁、内閣鉄道院、鉄道省など国営時代から、戦後に公共企業体である日本国有鉄道に至るまで、私鉄や地方自治体による公営企業以外は基本的に国有でした。当然、そこに勤務する鉄道員もまた戦前は国家公務員、戦後は公務員に準ずる公社職員としての身分をもっていましたが、分割民営化によってほとんどの職員は民間企業(といっても、特殊会社ではあったが)の社員へと変わっていきました。
組織が変われば、そこの文化も大きく変わっていくのは当然のことです。国鉄時代は当たり前だったことが通用することがなくなり、新しい考え方に意識改革を求められます。
例えば、貨物列車でいえばかつては物資別に適合させた貨車をつくり、貨車1両単位で輸送する車扱貨物が中心でした。その輸送方法も、発送する駅から到着する駅までの間をいくつかの操車場で方向別の列車に付け替えられる「ヤード継走方式」が主流でした。しかし、この方法では発想から到着までに時間がかかり、最悪の場合は貨物がいつ送り先に届けられるのか不明確になるなどの問題を抱えていました。
あまり時間に縛られないのんびりした時代であれば、この方法でもさして問題にはなりませんでした。しかし時代の移り変わりとともにスピードが求められるようになると、時間がかかる鉄道は次第に荷主が遠ざかっていき、モータリゼーションの進展とともにそのシェアを奪われていきました。
そこで発送する荷主の戸口から、送り先の荷受人の戸口までドア・ツー・ドアで貨物を輸送するコンテナ貨物列車が運転されるようになります。このコンテナ貨物列車は、拠点となる駅同士を結ぶ「拠点間輸送方式」となり、輸送時間も大幅に削減することに成功しました。
こうした変化もまた、時代の流れによるものだといえるでしょう。やがてヤード継走方式の車扱貨物からは荷主が遠ざかりっていき、赤字を生み出す元凶の一つになっていきます。そして、1982年のダイヤ改正で鉄道開業以来、脈々と続けられてきたヤード継走方式による車扱貨物輸送は終止符を打たれ、貨物列車は原則として拠点間輸送方式によるコンテナ貨物輸送に代えられていきました。
貨物輸送一つとっても大きな変革による意識改革が必要でしたが、実際にはそれを達成するまでにはかなりの時間が必要でした。
筆者が貨物会社に鉄道マンとして入社したとき、鉄道貨物輸送はすべてコンテナに置き換えられた、と思い込んでいました。というのも、1982年のダイヤ改正で、実家の近くにあった新鶴見操車場は廃止になり、それまで当たり前に見ることができた多種多様な貨車を連ねた貨物列車の姿が見られなくなったのです。あまり知識がなかった当時の筆者は、車扱貨物輸送自体が全廃されたと思い込んでいたのでした。
ところが、配属された電気区が管轄していた高島線の新興駅には、なんと昭和電工が保有していたアルミナ専用のホッパ車・ホキ3000の姿があったのです。それだけではなく、東高島駅からは日本製粉が出荷する小麦粉を輸送するホキ2200が、根岸線根岸駅からは日本石油(後のENEOS)根岸製油所から発送されるガソリン・石油類を積んだタキ車が、さらには横浜本牧駅から渋川駅まで発送される工業塩を積んだトラ70000までもが走っているのを見て衝撃を受けたものでした。
それらの車扱貨物輸送が原則として全廃になることはありませんでした。今日残っているのは輸送コストや代替となるコンテナ輸送に適さない、法令上ほかの輸送方法に転換ができないなど特異な事情によるものです。
当初は車扱貨物を全廃することなど考えていなかった(少なくとも、筆者が貨物会社に在籍していた当時は)のが、旅客列車の高速化によって脚の遅い貨物列車がダイヤ編成上のネックとなり、旅客会社からは貨物列車の運転速度の向上を迫られていたという事情や、貨車自体の老朽化による取替の必要性、さらには需要そのものが減ってしまいトラック輸送でも十分に賄える輸送量とコストなど、環境の変化によってコンテナ化を推し進めたのでした。
先ほどお話した特異な事情による車扱輸送を除いて、原則コンテナによる輸送へシフトするためには、実に20年以上の時間が必要だったことからもわかるように、脈々と受け継がれてきた伝統を覆す意識改革には、相当の時間と労力が必要だといえるのです。
前置きがずいぶんと長くなってしまいましたが、国鉄の旅客列車もまた然りといえるでしょう。
首都圏や関西圏には早くから電車が導入されましたが、大都市圏を除く多くの幹線を走る列車は機関車に牽かれた客車列車が主流でした。特に蒸機時代は特急も急行も、そして普通列車も長距離を走る列車が主体で、運転感覚が長く、編成も長大になる傾向がありました。
それに使われる客車もまた、戦前製のスハ32系や戦前から戦後にかけてつくられたオハ35系、戦後にはスハ42系、さらには軽量構造を実現した10系客車と、時代とともに改良が加えられたバラエティーに富んだものでした。
国鉄時代、大都市圏を除いて多くの路線では、幹線、亜幹線、ローカル線を問わず多くの客車が運用されていた。戦前製のスハ32系やオハ35系、戦後生のスハ43系など様々な客車が活躍していたが、その多くは基本設計が古く重量の嵩むものであった。長らく国鉄の旅客輸送を支え続けてきた存在だったが、大都市圏への電車の進出、地方都市圏をはじめ多くの路線で気動車の導入により、これら旧型客車は陳腐化していった。それとともに車齢が40年を超える「古参」が多く、1970年代に入ると老朽化が激しくなり代替が必要になっていった。(スハフ42 186[国鉄最終配置:盛モカ] 大井川鐵道千頭駅 2016年4月29日 筆者撮影)
これらのいわゆる旧型客車は、新製当時こそ特急列車など優等列車に使われましたが、専用の設備をもつスハ44系を除いて、多くは普通列車にも多用されています。これは、基本的に三等座席車(後に二等、さらに後年は普通車)はボックスシートが基本で、接客設備にあまり大きな差がなかったことが考えられます。
1960年代まではこれらの客車でも遜色なかったようですが、大都市圏の通勤路線や幹線に電車が進出してくると、さすがに陳腐化していくことは否めなかったようです。実際、東京−大阪間を結んだ「こだま」の151系は、当時としては豪華な設備を誇り、二等座席車でも転換クロスシートといった豪華な設備の前に、客車は相変わらずボックシート、特急列車用としてつくられたスハ44系でさえ一方向を向いた固定クロスシートを備える程度と、見劣りのするものでした。
とはいえ、国鉄は客車を汎用的に使うことを念頭において製作していたので、最初から特急列車用として設計された151系と比べるのも酷というものですが、長距離を走る夜行特急列車でボックスシートではサービス水準が大きく異なるため、1960年代に入ると専用の客車となる20系の開発に至ったのです。
《次回へつづく》
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