旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 財政難の申し子・クモハ485(上)

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、緊急事態宣言が発令されて1週間。最初は7都府県だけだったのが、とうとう全国規模になってしまいました。仕事も開店休業のような状態が続き、例年ならこの時期は毎晩持ち帰り仕事に追われていますが、今年は持ち帰る前に片付くので、ちょっとはブログの記事を書く時間もできています。

 まあ、時間はできているとはいえ、異常な状態の中でのことですから、一日も早く元の生活に戻れることを願うばかりです。

 

 こんな「いままでの常識」が通用しない日々ですが、今から35年ほど前にも鉄道では常識が覆ったことがありました。このように書くと少々大袈裟な感もありますが、国鉄の歴史の中では言葉通りの出来事だったっと思います。

 かつて、特急列車は主要都市と主要都市、または地方都市を結ぶ重要な交通手段でした。そのため、例えば上野-盛岡間や大阪-博多間のように、特急列車の運転区間は長距離となる傾向がありました。両端の都市間だけではなく、列車が運転される途中の主要都市などにも停車するため、利用する乗客の需要も多いと考えられたために、列車の連結両数は多くなり、長大編成を組むことが一般的でした。中には長距離・長時間の運転のため、食堂車を連結するのが当たり前というのもありました。

 また、こうした長距離・長時間運転を前提としたため、食堂車も連結する長大編成の車両は、運用の都合で、地方都市を結ぶ中距離列車にも宛がわれることがありました。例えば、門司港-博多-西鹿児島間を結んだ「有明」は、グリーン車と食堂車を含んだ11両編成〔485系・向日町運転所)または12両編成(583系・南福岡電車区)を組んで運転されていました。

 これは、当初は京都府にある向日町運転所と南福岡電車区に配置された車両が使われたためでした。どちらの車両も、関西-九州間を結ぶ特急列車として長い距離を走るのが主な仕事でした。こうした仕事のために食堂車も連結していたのですが、九州にやって来て折り返し戻るまでの間、そのまま車庫で寝かせていてはもったいないと、間合い運用として九州内特急としても走る仕事が与えられます。このため、本来であれば食堂車も含む長距離用の10両以上を組む長大編成が、中距離である「有明」などとしても走るということがあったのです。

 ところが、山陽新幹線の延伸とともに、山陽-九州間の特急列車は運転区間を縮めたり、あるいは廃止になったりしていきました。1975年に新幹線が博多まで開通すると、山陽本線を走っていた特急・急行列車にとってはとどめを刺された形となり、その多くが姿を消していきました。

 そのため、向日町や南福岡に配置されていた485系583系といった特急用電車は、山陽・九州間特急用という仕事を失ってしまいます。そのままではただの「余剰」になってしまいますので、国鉄はそれらの車両の「特性」を生かし、必要なところへ必要な数を配置転換させようとしました。

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f:id:norichika583:20200415233419j:plain国鉄時代の特急列車。上の583系は関西-九州間の夜行列車として運転され、間合いで九州島内の昼行特急としても運転された。下の485系も関西-九州間の昼行特急として運転され、やはり間合いを利用して島内特急としても運転された。どちらも10両以上の長大編成を組み、編成中程には窓配置がほかの車両と異なる食堂車の姿も見ることができる。(上:©Gohachiyasu1214 / CC BY-SA Wikipediaより 下:©Gohachiyasu1214 / CC BY-SA Wikipediaより


 向日町の485系は南福岡と鹿児島運転所に転じ、南福岡の583系はほとんどが向日町に移り、一部は遠く青森運転所へと異動しました。485系は九州島内の昼行特急として、583系は関西-九州間夜行列車(寝台特急)としての仕事*1が与えられます。

 九州にやって来た485系は、さっそく九州島内の昼行特急で活躍を始めました。鹿児島本線の「有明」10往復、日豊本線の「にちりん」8往復など、運転本数も大幅に増えました。

 

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▲1975年、新幹線博多開業時に向日町運転所から南福岡電車区へ転属した485系の編成。11両編成で、グリーン車2両に食堂車1両を連結した陣容は、長距離・長時間運転を前提にした従来の特急列車の考え方のままだった。

 

 ところが、運転本数が増えて利便性が増しましたが、485系は相変わらず長距離主体の10両編成を超えるもの。しかも、食堂車まで連結したままでした。運転本数が増えれば、当然ですが、利用客は他の時間帯の同一列車に分散し、列車一本あたりの乗客数は減ってしまいます。
 その結果、乗車率の悪い列車を多数走らせることになり、空席が目立つどころかガラガラの状態で走る列車が多数現れていきます。そこへもって、相次ぐ運賃値上げとサービスの悪さから「国鉄離れ」が進み、航空機や高速バスなどの他の交通機関に乗客を奪われた結果、乗車率はさらに悪化しました。
 しかし、これらの列車は相変わらず長大編成を組んだままで、まさに高コストで非効率な列車が運転されているという有様でした。

 このような状態は経営面からもけして芳しいものではなく、民間ならすぐにでも改善策をとるところですが、こうしたあたりはさすがは国鉄。手をつけないどころか、「長距離の優等列車には、必ず食堂車を連結すべし」などという伝統主義が蔓延り、なかなか改善へを向かいませんでした。

 しかし、国鉄の分割民営化が現実を帯びた頃、さすがにこの状態を放置したまま、新会社への引き継ぎはできないということで、国鉄優等列車史上に残る大鉈を振り下ろしました。

 それは・・・

 特急列車の短編成化。

 従来の、長大編成を組んで長距離運転という伝統を打破し、需要に合わせた適切な編成を組んで、多頻度の運転で利便性を増していこうというものでした。

 ところが、特急列車の短編成化を実現するためには、大きな課題が立ちはだかりました。

 

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▲1985年のダイヤ改正では、需要に合わせた編成をと変化した。短編成化により、大量の先頭車が必要になった反面、大量の中間車が余剰になった。「有明」は5両編成と3両編成となり、5両編成は両端とも先頭車化改造車で賄われた。

 

 従来10両編成を組んでいたものを、例えば半分の5両編成に分けると、2本分の運転が可能です。そうすれば、所要数を満たすだけに組み替え、余剰となった老朽車を廃車にすると、運用コストも減ります。が、問題は、半分にしたところは「中間車」であり、「先頭車」ではないということでした。

  つまり、先頭車が極端に不足するのです。

 さすがに新車をつくる余裕など、この時の国鉄にはありませんでした。膨大に膨れあがった借金すらまともに返済できていないのに、いくらなんでも新車をつくる予算などありません。

 そこで考え出されたのは・・・

 先頭車に改造してしまおう!

 ということでした。

 こうして幾つかの「先頭車化改造車」が登場しましたが、さすがに改造費用はある程度は確保したようで、後年「魔改造」などと揶揄される簡易な改造ではなく、しっかりと従来と同じ形状の運転台のある車両でした。

 この短編成化の流れの中で登場したのが、今回の主人公であるクモハ485形0番代です。

 

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 写真を見てもお分かりのように、製造当初から先頭車としてつくられたクハ481と同じ形で、先頭車に改造した車両とは思えない出来栄えでした。こうしたあたりは、いくら改造で賄うといっても、国鉄特急としての意地と伝統だけは守ったように思えます。

 クモハ485は、「有明」と「にちりん」を短編成化するにあたって、4M1Cの5両編成で運転することを目的に、門司港方の先頭車として改造されました。

 モハ485の機器はそのまま活用しました。車体は一部を切断し、代わりにクハ481300番代と同等の前頭部を別につくって接合します。その際に、種車であるモハ485の客用扉とデッキ部などを前頭部との間に移設し、本来ならクハ481が装備する空気圧縮機や電動発電機などの補機類を、客用扉と運転台との間に設けました。このため、定員は16名減って56名となり、外観も機器室がある独特のものとなりました。

 民営化後の魔改造とは異なり、できる限り違和感をもたせない、美しい改造でした。

 筆者が小学生の頃、鉄道雑誌で紹介されていたのを見て、この改造を受けたクモハ485の存在を知ることになります。しかし、国鉄の看板といってもいい特急形電車に改造のメスを入れるとは、いよいよ国鉄もマズい状況になってきたのではと、子ども心に感じたものです。

 そして、その翌年だったでしょうか、この改造を受けたクモハ485に乗る機会を得るのでした。

 《次回へつづく》

*1:1975年ダイヤ改正後も、一部は間合い運用による「有明」としての運用が残った。