旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

前歴は寝台特急、余剰で転用された「食パン電車」【2】

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《前回のつづきから》

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 1982年のダイヤ改正で、広島地区には「シティ電車」という名称で、「国電ダイヤ」と同じように日中は15分間隔で列車を運転し、パターン化したダイヤ編成にしました。また、従来の国鉄線は駅間距離が長いため、地域住民にとっては非常に使いづらかったことから、駅を増設して利便性を高めました。加えて運用される電車もアコモデーションを改善し、列車編成もそれまでの8両編成や6両編成から、4両編成に短縮させました。さらに片側2扉転換クロスシートを備えた115系3000番代を導入しました。

 広島地区のシティ電車はそれだけに留まらず、日本三景の一つである宮島への観光客輸送の利便性を高める施策もなされます。宮島口駅からは、国鉄が運航する宮島連絡船が発着していましたが、鉄道と船舶の接続についても考慮がされたダイヤ設定をしたのです。

 この広島地区のシティ電車化は好評を得て、ダイヤ改正前と比べて6%の乗客の増加、日中に至っては10%程度の増加に転じました。

 この広島地区におけるシティ電車の好成績を得た国鉄は、このパターンダイヤ化と高頻度運転を全国の地方都市へ広げ、利用者の増加を目論みました。

 

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伝統的な「汽車ダイヤ」から、幹線の地方都市圏における利便性向上のために、大都市近郊で導入されている「電車ダイヤ」へ移行するために、多くの車両が必要であった。手始めに広島都市圏において「電車ダイヤ」を導入するにあたって、国鉄が新造したの115系3000番代である。乗降用扉は2扉とし、転換クロスシートを設置することで接客サービスの向上も図られた。これにより、列車の運転頻度を高めることが可能になったが、これはあくまでも「例外」といえるだろう。莫大な債務を抱えた国鉄には、このような車両を新製する体力はほとんどなかったため、他の地方都市へ「電車ダイヤ」を導入するにあたっては、在来の車両を使うか、それを改造することになった。(クハ115-3104〔広セキ〕 下関駅 2007年10月 筆者撮影)

 

 この「国電ダイヤ」を全国に広げていくには、国鉄が運転する列車の形態を転換しなければなりません。機関車牽引の客車列車を廃し、走行性能に優れた電車を投入して、輸送規模と能力を大幅に改善する必要がありました。直流区間では、大量の113系115系があったので、これを短編成化して対応しました。短編成化に際しては、当然、先頭車が不足しましたが、余剰となった中間車に運転台をもつ前頭部を接合する先頭車化改造で賄うことができました。

 一方、地方幹線は交流電化がされていました。交流区間では、113系115系にあたる近郊形電車として415系などがありましたが、絶対数が足りません。増備するにしても、直流車と比べて高価なので、財政事情がすでには単に近い状態の国鉄にとって、交直流電車を新製・増備することは非常に困難でした。

 そのため、旧来からの客車列車を電気機関車に牽く形にし、一部は「汽車ダイヤ」時代から使われている気動車をもパターンダイヤ・多頻度運転に組み入れましたが、根本的な解結にはなりませんでした。電気機関車に変えたといっても、そもそもの国鉄電機はその多くが貨物列車を牽くことが前提だったため、牽引力を重視した低速寄りの歯車設定がされ、加速力は電車と比べて低く、高速運転にも適さないものだったのです。

 また、欧米のように客車編成の両端を機関車で挟む「プッシュ・プル」ではなく、日本では進行方向の先頭にだけ機関車を連結する方法を採っていたため、終着駅で折り返すときには必ず機回しと付け替え作業が必須でした。機回しをするためには執着となる駅で必ずそれを行うことができる側線などが必要になり、加えて機関車の解結と操車誘導をする駅職員が必要になります。結果として、線路施設とその維持のための保線・電気関係のランニングコスト、さらに解結と機回しのための輸送を担当する職員を配置するための人件費も必要になり、「国電ダイヤ」を実現させるためには客車列車ではなく、使い勝手がよくランニングコストの軽減も期待できる電車が必要だったのです。

 1985年に仙台地区と北陸地区において、パターンダイヤの導入と普通列車の多頻度運転による「国電ダイヤ」へ転換するために、数多くの電車を必要としました。しかし、これらのことを実現しようとするためには、普通列車に充てることができる交直流近郊形電車が数多く必要でしたが、在来の車両だけではどうしても足りません。

 従来の国鉄の考え方からすると、「足りないのだから造るしかない。資金は鉄道債券や利用債で賄えばよいだろう」という発想だったでしょう。しかし、既にこの頃は国鉄が分割民営化されることが決まっていたため、車両が足らないからといって返しきれない借金の上に、さらにそれを上積みするようなことはできませんでした。

 そこで、国鉄が目をつけたのが、当時、すでに余剰となっていた581・583系でした。改造であれば新製に比べてコストも抑えることができますし、なにより財政難の中で「使えそうなものは、使えるものにする」といったことにすれば、新製に比べてコストも軽減できます。加えて、安価に抑えるためにに改造を選択したことで、改造費の予算を配分し易くなることも考えられます。

 こうして、かつては昼夜兼行で長距離を走破する特急列車として重宝され、食堂車も連結した堂々の12両編成異常を組んでいた581・583系は、国鉄の工場へと送り込まれ、かつての栄光も何もなく、特急形から近郊形へ改造されることになったのです。

 

《次回へつづく》

 

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