1985年だった86年だったか記憶が曖昧ですが、1985年のダイヤ改正の後だということははっきりしています。
祖父に連れられて九州を旅したとき、朝早く、博多駅を発車する「有明」で、西鹿児島駅まで通して乗ることがありました。この時に乗ったのが、短編成化で改造されたクモハ485だったのです。
これがただのクハ481だったら、あまり印象に残っていなかったでしょう。博多駅から「有明」に乗る時に、デッキへと入る客用扉の隣に、行先を示す方向幕窓と、いかついルーバーを備えた機器室はとても印象に残ったからでした。
もちろん、車内に入って運転台側へは行くことはできず、客室内へ通じる扉があるだけです。車内に入っても、客室の面積が大幅に削られただけあって、他の車両と比べるまでもなく「狭い」印象を受けました。
そんな車内で座席に陣取り、流れゆく車窓を夢中になって見たものです。
一度は夜行列車だったので見えませんでしたが、「有明」に乗ったときには、日も昇っていて朝の太陽が鹿児島本線沿いの街を照らしていました。
この頃の特急列車は、走り出すと車内が静かだったという印象をもっています。電動車なので走行用のモーターの音もしたのかも知れませんが、あまり聞こえてこなかったというのが正直なところ。改造車でも、防音構造はしっかりしていたのだと思います。
窓から眺める見ず知らずの町々は、少年だった筆者にも強い印象を与えてくれます。中でも鳥栖駅や久留米駅、大牟田駅や熊本駅といった大きな駅、それぞれの駅の役割や表情が異なり、それと同時にかつて客車主体だった頃の設備が残るなど、首都圏の駅では見ることができない、どの土地のものを見れた気がします。
そんな思い出のある改造車・クモハ485は、のちに分割民営化でJR九州が継承し、引き続き「有明」「にちりん」に使われ続けました。
(©Rsa / CC BY-SA Wikipediaより引用)
民営化後も、しばらくは大きな動きはありませんでした。
筆者が貨物会社に入社し、九州・門司へ赴任した1991年当時も、変わらず「有明」「にちりん」の先頭に立って走り続ける姿を何度も見たものです。
財政的にはあまり余裕のないJR九州で、特急用に使える車両としては相変わらず485系が主体で、しかも電動車は2両で1ユニットを組まなければならないので、制御電動車であるクモハ485は重宝したのでしょう。
やがて、後継となる783系「ハイパーサルーン」や、787系といった新世代の車両が登場すると、485系の活躍の場は徐々に狭められていきました。これらの車両が登場する度に、古参の485系は運用を離れて廃車となっていきました。
また、1991年頃からJR九州に所属する485系は、常識を覆すような奇抜な塗装を身に纏い始めていきます。
それは、なんと「赤一色」に塗られていったのです。
JR九州のコーポレートカラーである赤色を全面に押し出し、インパクトを与えようとするデザインは、今日、多くの鉄道車両のインテリア・エクステリアデザインを手がけて名高い、水戸岡鋭治によるデザインのもの。世に出た当初は「なんだ、この奇抜な色は!?」なんて思いもしましたが、今となってはこれはこれで似合っていたと思うのです。
さて、1994年に「有明」から485系は手を引きます。一方で、「にちりん」としての運用は、運手区間を徐々に短くしながらも比較的後年まで残りました。2000年代に入り、長年住まいとしてきた南福岡から大分へと移り、日豊本線系統の列車に引き続き活躍を続けます。
「ひゅうが」や「きりしま」といった、民営化後に登場した列車にも組み込まれ、生まれ持った特徴を大いに活かす場面にも恵まれました。特に、「きりしま」では赤ではなく緑一色に塗り替えられ、2M1Tの3両編成という、485系で運転される特急列車としては最短編成を組むことができたのも、クモハ485があったからこそと言えるでしょう。
種車のモハ485として登場してから約 年以上、改造によりクモハ485となってからも既に30年以上が経ち、JR九州も485系の運用を終了させることにしました。そして、九州新幹線の博多-八代間の開業によって、783系や787系が鹿児島本線系統での仕事を失い、南福岡を追い出されるように大分へやってくると、485系は活躍の場と住処を失っていきました。
しかし、クモハ485-5を組み込んだ、大分車両センターのDo32編成は2016年1月に廃車になるまで、JR九州で最後の485系として走り続けます。2010年に緑色一色から国鉄特急色へ戻されたのも、最後の1編成ならではといえるでしょう。かつての姿を身に纏う幸運を得て、最後の活躍を続けました。そして、その最後の1編成の中に、クモハ485があったのは、やはり使い勝手のよい車両だった証左ではないでしょうか。
いずれにしても、国鉄の分割民営化を控えた時期に、特急列車の短編成化という課題に対し、その財政難から手持ちの車両を改造する方法で、それまでの多くの「伝統と常識」を覆すべく登場したクモハ485。
車体にも大きな特徴をもちながら、それでいて使い勝手のよい車両として、九州の特急列車網を支え続けた功績は大きいといえるでしょう。
2016年に最後の1両が舞台を去ってずいぶんと月日が経ちましたが、この写真を見て、幼き頃の思い出が蘇ってきたものです。
ただ、残念なのは保存車がないということですが、まあ、それを望むのは高望みというもの。こうして、後世に語りつがれるのも、もしかすると舞台から去って行った車両たちには手向けになるのかも知れません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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