旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

過酷な通勤輸送を支え続け40年の功労車・東急8500系【2】

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《前回からのつづき》

 

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 異なる鉄道事業者同士が相互直通運転を実施するために、乗り入れる車両については規格を統一することは、ごく一般的なものでした。乗り入れ相手となる鉄道事業者保有する車両が自社線内に入ってきたときに、基本的な仕様がまったく異なり、運転操作がまったく違っては乗務する乗務員の負担は大きいものです。また、車両故障時には乗り入れ相手の車両であっても、応急処置を行うのは乗り入れ先の検修員であることもままあります。そのため、ある程度は統一したものでなければ職員の負担も大きくなってしまうので、予めこうした取り決めがおこなわれるのです。

 田園都市線半蔵門線を相互に直通運転する車両には、路線識別用の帯を巻くことが定められました。営団地下鉄は路線ごとに色を決めて、乗客案内上、わかりやすいものにしています。これは東京都交通局が運営する都営地下鉄にも採り入れられていることで、東京都心部の地下鉄では異なる路線で同じ色を使うことはありません。半蔵門線はパープルを使うことが決まっていましたが、それは営団保有する車両に使うことになっていました。

 一方、乗り入れ相手である東急の車両は、こうした識別用の帯を使っていませんでした。東横線の主力となっていた8000系はもちろん、同じ営団相互直通運転を実施していた日比谷線に乗り入れる7000系も識別帯をまいていません。もっとも、日比谷線で運用していた営団3000系も識別帯がなかったので、日比谷線相互直通運転に際しておこなわれた取り決めでは、そこまで細かくは決められていなかったと推測できます。

 一方、半蔵門線は細かく仕様が決められたため、営団の車両は路線カラーであるパープルの帯が巻かれることになっていました。一方で、東急の車両にそれまでこうした識別帯がなかったのですが、半蔵門線に乗り入れる8500系には、識別用に東急のコーポレートからである赤色の帯が正面に巻かれました。

 

田園都市線の「主」にまで成長した8500系は、先に運用に就いていた8000系とほぼ同じ機器を装備し、仕様もほとんど同じだった。しかし、営団半蔵門線へ乗り入れるにあたって、車両の規格などを共通化するためにMT比を上げるなどしたため、新たに500番代以降の形式が与えられた。しかし、当初は所要数に対して在籍数が足りなかったこともあって、一部の中間車には8000系が組み込まれていた時代があった。写真のクハ8040も、8500系が増備され始めた頃に8624Fに付随車代用として中間に組み込まれ、東横線で運用された。後に新玉川線開業時もそのままの編成で元住吉から鷺沼に転属して運用され、8500系の増備が進んだことで中間組み込みを解除されて東横線へと戻っていった経歴がある。(8039F・クハ8040 多摩川園駅(当時) 1984年6月頃 筆者撮影)

 

 また、運転士や車掌が直接操作する乗務員室の機器も共通化が図られました。

 8500系を設計する段階であった当時、東急は既に主幹制御器にT字型ワンハンドルマスコンを採用し、8000系に装備して運用していました。8500系は8000系のマイナーチェンジ車なので、当然、ワンハンドルマスコンを採用する計画でした。一方で、営団半蔵門線開業時には自社車両を用意せず、田園都市線新玉川線から乗り入れてくる東急の車両だけで営業列車を運転する計画でした。そのため、営団保有する7000系までの車両は、すべて主幹制御器とブレーキ操作装置が別であるツーハンドル型でしたが、他社の車両だけで営業するということかっら、ワンハンドル型の主幹制御器を採用することにしたのです。

 また、こうした取り決めは、車体や操作機器だけに留まりませんでした。

 地下鉄では、地下線部と地上線部との間は、比較的短い距離で接続させることが一般的です。これは、長い距離をとってしまうと建設費がかさばるので、これを避けるために短くするためでした。

 ところが、黎明期の地下鉄であればその線路も比較的浅いところに建設できますが、東京都心の地下鉄は戦後になって建設が相次ぎ、まるで網目のように路線網が発達していったため、建設が後になればなるほど深いところになっていきました。

 半蔵門線は東京都心部で10番目につくられた地下鉄であるため、先に開業している路線を避けるようにして建設しなければなりません。そのため、地上からかなり深い場所につくられることになります。

 このことは、運行する車両の性能にも響いてきます。

 深い場所を走る地下鉄では、地上に出るためには長くて険しい勾配を上らなければなりません。その勾配を一気に駆け上がる性能を確保するため、主電動機の出力はもちろんですが、編成単位での出力、さらにはそれに応じた電動車比率までもが細かく規定されます。これが一つでも欠けた場合、通常の走行であれば問題にならなくても、万一の車両故障などで編成単位で十分な性能が確保できない等の場合は、それでも地上へ駆け上がることが可能な性能が求められるようになるのです。

 こうしたことから、8500系は電動車の比率を大きく設定することになりました。1975年に8000系第6次車の一員として製造されますが、当時は4両編成でM2C-M1-T-M1cの3M1T という編成でした。翌1976年に第7次車として製造されたグループでは、同じ4両編成でしたがM2c-M1-M2-M1cと4Mが組まれていました。これは最終的に10両編成で8M2TになるまでM車が多くなるように組成され、最終増備に至るまで変わりませんでした。

 また、当然といえば当然ですが、保安装置についても協定では細かく規定されていました。

 営団では、多くの路線にATCを採用しています。日比谷線東西線では地下の坑道内に地上信号機が設置されていました。WS-ATCATC-3)と呼ばれる列車自動制御装置が用いられていましたが、千代田線以降は車内信号式のCS-ATCATC-4)が採用されました。半蔵門線もCS-ATCが採用されたため、乗り入れる8500系もこれに対応した機器を搭載しました。そのため、8000系とは異なる運転台機器となり、同時に後に営団が増備する営団8000系とほぼ共通仕様の運転台機器となったのです。

 

《次回へつづく》

 

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