旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

西武鉄道「サステナブル」車両の導入候補決まる 歴史を乗り越えた【3】

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《前回のつづきから》

 

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■争いの歴史を乗り越えて協力関係を築く

 箱根山戦争や伊豆戦争と呼ばれた、関東大手私鉄同士の企業間競争は1960年代に入ると徐々に収束していきました。さすがに熾烈を極め、しかも法廷闘争の泥試合をよしよしなかった国の調停や、問題となった私有の自動車道を神奈川県が買収したこと、さらに早雲山駅から大涌谷駅を経て、桃源台駅まで箱根ロープウェイが開通するなど環境も変化したことで、小田急箱根登山鉄道から平和回復の声明が出されたのでした。

 時代の流れとともに世代交代も進み、かつて勇名(?)を馳せた創業者とその一族はビジネスの第一線から姿を消し、社会環境の変化がライバル企業を追い落とすような行為は世間の理解を得られないばかりか、企業そのものの価値を落とすことにほかなねず、ひいては企業の存続すら危ぶむものになりなねません。

 その後、箱根や伊豆を取り巻く環境は大きく変わっていきました。モータリゼーションの進展によって、これらの観光地を訪れる観光客は鉄道やバスからマイカーを使うことが多くなり、鉄道やバスの利用者数は減少に転じていきます。1980年代後半に入ると、レジャーの多様化によって観光客そのものも減少していき、さらにバブル経済の崩壊とその後の長期に渡る景気低迷はそのことに拍車をかけ、もはや旧来からのビジネススタイルではどうしようもないほどの落ち込みを見せていきます。

 これらのことが背景になり、長年ライバルとされてきた西武と小田急は、箱根における協業関係を築いていくことになりました。例えば、西武陣営の箱根園に、小田急陣営の小田急箱根高速バスが乗り入れたり、それまで別々に設置したり同じ場所なのに名称が異なったりしていたバス停を、伊豆箱根バス箱根登山バスが共同で使用するか名称を統一するなど、大きく変化していきました。

 また、小田急が発行する「箱根フリーパス」を西武陣営の施設で割引が可能になり、西武陣営も「箱根ワイドフリー」とよばれる切符を発行しているのにもかかわらず、西武線の駅で「箱根フリーパス」を購入できるようになるといった、過去を知る人にとっては驚きとしか言いようのない協力関係ができました。それだけ、箱根の観光事業の落ち込みが激しくなっていると考えられるでしょう。

 他方、西武陣営と東急陣営の融和も徐々に進んでいきました。西武鉄道は長年、自社の鉄道で運用する車両は自社の所沢車両工場で製造するという、「自給自足」体制をとっていました。

 しかし、1980年代頃になると鉄道車両の技術は大きく発達していき、抵抗制御からチッパ制御、さらにはVVVFインバータ制御へと変化し、さらには普通鋼製からステンレス鋼やアルミ合金と車体自体の材質も変化するなど、車両の製造は高度な技術とコストダウンが要求されるようになりました。そのため、新101系からは、所沢車両工場だけでなく車両製造メーカーにも発注することになりますが、その発注先がかつてのライバルだった東急陣営の東急車輛だったのです。

 

西武鉄道が観光路線でもある秩父線用として製造した4000系は、かつてのライバルだった東急の傘下にある東急車輌へ全車を発注した。新101系の製造で外部メーカー、それも東急車輌へ発注したのがその始まりで、それまでは自社の所沢車両工場で製造していた。時代も移り変わり、ライバルだからと言ってもいわれない経営環境の変化が、こうした方針を変えさせたのかもしれない。(©MaedaAkihiko, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 そして、2008年に東京メトロ副都心線が全線開通をすると、西武と東急の車両が副都心線を経て相互に乗り入れが開始されました。かつてはまったくと言っていいほど、縁も縁もなく、物理的にも接点のなかった両社が相互に乗り入れることに、多くの人は驚きをもっていたことでしょう。実際、筆者も東急線沿線に生まれ育ちましたが、副都心線の全線開業とそれに伴う乗り入れ開始以後は、「東飯能」や「石神井公園」といった聞き慣れない行先案内に戸惑い、西武の車両が地元を走るなど夢々考えなかったことが現実になり、東急沿線から秩父まで、あるいは西武沿線から横浜まで簡単に行くこともできる時代になったのです。

 このように、かつては互いに睨み合い、競い合った企業グループは、いまや手を取り合い協力し、さらには相互乗り入れという形で大きなネットワークを形成するに至ったのです。

 

東京メトロ副都心線の全線開業とほぼ同時に、東急と西武の相互乗り入れが始められた。両社の歴史を知る人にとって、そして観光地を巡るしのぎを削る争いを目の当たりにした人にとって、このことは歴史の大きな転換点と捉えられたであろう。東急線を西武の車両が走ることなど微塵も想像していなかったので、沿線に住む人々、そして何より東急電鉄で働く人たちに大きな衝撃を与えた。無論、それは西武の沿線住民やその社員にとってもまた然りである。これにより、横浜から都心を経て、所沢やさらには秩父へ至る一大ネットワークが形成された。(©MaedaAkihiko, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

《次回へつづく》

 

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