旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 101系が走っていた頃 1980年代の浜川崎支線【2】

広告

 《前回からの続き》

 

blog.railroad-traveler.info

 

 中原電車区に配置された101系はカナリアイエロー(黄色4号)に塗られ、それまでのぶどう色2号とは比べ物にならな明るいカラーになり、都心で使い古された中古車といえども旧型国電を押し出して新性能化に貢献しました。

 本線は6両編成で川崎ー立川間を往復するようになりましたが、浜川崎支線も老朽化が激しい戦前製の17m級旧型国電を置き換えるために、101系の制御電動車同士で組成して運用を始めましたが、ここに来て全電動車編成を実現できたのでした。

 写真は1984年頃に、尻手駅で撮影した浜川崎支線で運用される101系です。冷房化もされてなく、前灯は原型のまま白熱灯1個です。この頃、本線で運用されていた101系や103系は、シールドビーム灯1このいわゆる「ブタ鼻」改造を受けている中で、支線での運用だったので恐らくは後に回されたのでしょう。それは、冷房化も同じで、結局、分割民営化までに施されることはありませんでした。

 結局、この101系は分割民営化後もしばらくは中原電車に所属したまま、浜川崎支線での運用を続けました。本線は103系205系に置き換えられ、やがては新系列と呼ばれる209系も入り、旧弁天橋電車区から移管された鶴見線で運用されていた101系も103系に置き換えられた後も、浜川崎支線の101系は置換えにはなりませんでした。

 この理由としては、103系には制御電動車はあるものの、地上用はクモハ103のみがあり、モハ102に相当する制御電動車となるクモハ102は、中央緩行線地下鉄東西線の直通運転用に製造された1200番代があるのみだったので、103系に置換えられることはなく、他に適当な車両がなかったということでしょう。

 

f:id:norichika583:20210504102405j:plain

最晩年の浜川崎支線用101系。前灯は白熱灯1灯型から、従来のライトケースをそのまま活用してシールドビーム灯2灯型へ改造された、いわゆる「ブタ鼻」と呼ばれる形状に変化し、屋根には小型軽量のAU712集約分散冷房装置が搭載された。AU712は冷房能力21000kcal/hで、これを2基搭載することでAU75の1基分の能力があるとされるが、実際にはあまり「涼しくない」という印象が強かった。(出典:Wikimeida Commonsより ©DAJF)


 国鉄の分割民営化後、浜川崎支線の101系は、ようやく冷房化改造を受けました。国鉄時代は集中式のAU75を装備し、屋根には重量のかさむAU75を載せることができるように補強が入れられ、同時に冷房用のダクトを追加する工事が標準的でしたが、コストが高く工事期間も長くなるため、代わりに小型軽量のAU712を2基装備する方法へと変わり、浜川崎支線の101系もAU712装備の工事を施工され、接客サービスのレベルを向上させることができたのです。

 塗装もそれまでのカナリアイエローから、クリーム色地に濃淡のグリーンの帯を巻いたオリジナルの塗装を身にまといましたが、さすがによる年波には勝てず老朽化が進んでいたため、2000年代に入ってようやく置換えが具体化します。後継としてE231系500番代の投入により、山手線から押し出された大量の205系に白羽の矢が立ったのです。しかし205系には制御電動車がなかったため、中間電動車であるモハ205モハ204を先頭車化改造車した205系1000番代(クモハ205クモハ204)に置換えられ、ようやくその長い活躍に幕を下ろしたのでした。

 

f:id:norichika583:20210504125219j:plain

浜川崎支線を行く205系1000番代。国鉄時代にも中間車を先頭車化改造という事例はあるが、いずれも普通鋼製の車両であったため、改造・加工が容易であった。しかし、ステンレス車体の場合はその特性から加工が難しく、JR、私鉄を問わずあまり例がなかったが、JR東日本は残存する普通鋼製の103系を淘汰するため、山手線から大量に発生した205系の余剰車を活用することにし、これらの中間車を先頭車化改造を施した。側面構造は可能な限り種車のままとし、乗務員室部分を設けた。また、前面にはFRP製構体と大型一枚曲面ガラスといった新車に匹敵する前面を設けたことで、改造車としては質の高いものとなった。南武線用には1200番代、浜川崎支線用には1000番代、そして鶴見線用には1100番代が改造され、中原電車区(当時)に集中配置されたほか、仙石線用に3100番代を仙台車両センター宮城野派出に配置した。(川崎新町ー浜川崎 2012年 筆者撮影)


 小学生の頃、この浜川崎支線には何度か乗りました。浜川崎駅鶴見線に乗り換え、大都市の中にありながらローカル色が色濃い鶴見線の旅を楽しんだものです。夏場は冷房もないので、窓は全開にして走行中に入ってくる風に吹かれ、車輪がレールの継ぎ目を通過するときに発するジョイント音を聞きながら、僅か4.1kmの鉄道の旅を満喫したのは既に遠い過去のこと。

 今ではコストダウンという大義名分と、極端に空調設備に頼りすぎたために窓すら開けることができない(このことが、後年になって大きな「仇」になると想像する人は少なかったようですが)車両が多くなってしまいました。しかも、窓を開けることができたとしても5月頃の初夏から冷房を入れてしまうため、窓を開けようものならたちまち顰蹙の的になるという、なんとも世知辛い世の中になってしまいました。

 その浜川崎支線も、次世代の鉄道車両である燃料電池車と蓄電池で走行する試作車が登場するそうです。

www.city.kawasaki.jp

 技術の進歩とともに、様々な車両が登場しますが、これまで他の路線で使い古された中古車両、時には改造車によって賄われてきた浜川崎支線に、次世代の車両が試験走行とはいえ入ってくることに、筆者も驚きを隠せませんでした。走行距離がそれほど長くなく、そして日中の時間帯は列車の運転本数も少ないこと、更には燃料となる水素の供給にも利便性が高い立地だったのか、地元自治体の協力もあって実現できたことであるといえます。

 時代の移り変わりとともに、鉄道を取り巻く環境は大きく変化をしていきます。しかし、この写真を眺めながら幼き頃、鉄道に乗って出かけるあの「ワクワク」感は、歳を重ねても色褪せることはないでしょう。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

あわせてお読みいただきたい

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info