旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

もう一つの鉄道員 ~影で「安全輸送」を支えた地上勤務の鉄道員~ 第一章・その4「あの列車はどこへ? 車掌になって全国へ行きたい」

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◆あの列車はどこへ? 車掌になって全国へ行きたい

 日本の三大操車場の一つと言われた新鶴見操車場の近くが住まいになった私は、成長とともに将来は国鉄へ入って鉄道の仕事に就きたいと願うようになった。
 小学校四年生からは週に3回、市内の武道館で剣道を習いに行っていたが、そこへ行くためには操車場を越えた反対側の町に出なければならない。否が応でも操車場を跨ぐ長大な跨線橋を通ることになった。
 まさに、その跨線橋越えは私にとって楽しみの一つだった。
 今ではIT企業の研究所が立ったり、マンションの建築が進められたりしている小倉跨線橋のあたりは、その当時は仕訳線が多数敷かれていて、昼夜を問わず入換作業が行われていた。
 昼夜を問わずと書いたが、どちらかというと昼間より夜間の方が入換作業は頻繁だったと思う。
 品川方にはハンプと呼ばれる丘があり、そこで列車から切り離された貨車はコロコロと降りてきては、行き先別に分けられて次の列車となるために連結されていく。
 そして、鶴見方には入機のDE11形が待機していて、仕訳線に停まっている貨車の位置を動かしては後からやってくる貨車のために場所を空けたり、組成が終わった列車を着発線へと持って行っていた。
 とにかく、そんな単調な作業でも、私は飽きもせず何時間でも眺めることができた。まあ、端から見たら異様な行動を取る少年に映ったかも知れない。
 そんな貨車の中で、私の心を惹く車両があった。
 それが車掌車だった。

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 今では貨物列車は機関士1名のワンマン運転が当たり前だが、その当時は列車の一番後ろに必ず車掌車か有蓋緩急車を連結して、そこには車掌が乗務していた。
 どういう仕事をするかわからなかったが、とにかくあちこち遠くへと行くのだということは想像がついた。深夜から早朝を走る列車なら、朝焼けの日差しが窓から差し込んで眠い目で夜明けの町を眺めることができるだろうし、夕方から深夜を走る列車なら遠くへ行くのだという郷愁も味わえたかも知れない。そう思うと、わくわくして車掌になりたいと考えるようになった。

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 「そんな甘い仕事じゃないぞ!」と思われる方もいらっしゃるかも知れないが、まあ少年の考えることだったのでそこはご容赦を。
 もっとも、その夢も厳しい現実の前に、次々と破られていく。
 巨額の赤字を抱えた国鉄は、さらなる合理化を推進していき、1984(昭和59)年のダイヤ改正で貨物輸送を抜本的に見直し、それまでのヤード継走方式を全廃にした。そのために、全国の操車場はごくごく一部を残して機能停止となっていき、新鶴見操車場も長い歴史に幕を閉じてしまった。
 そして、いつかはこの仕事にと考えていた車掌の乗務も、貨物列車では原則廃止になり、とうとう叶うことのない夢となっていった。さらには私が中学二年生だった1987年、天文学的数字ともいわれる巨額の赤字を抱えた国鉄はついに分割民営化されて新会社であるJRに移行してしまい、国鉄で働きたいという私の夢は潰えてしまった。
 それからというもの、私の鉄道熱はしばらく冷めてしまうことになる。