旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨物列車の最後尾を飾った有蓋緩急車たち【3】

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《前回からのつづき》

 

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■戦時設計、代用資材の木製を使ったワフ28000

 1944年になると戦局の悪化と資材の不足は、日本の経済に大打撃を与えていました。人々の生活は困窮し、食べるのも配給制に頼らざるをえない状態でした。そして、燃料はもちろんのこと、鋼材も軍需が優先され、鉄道に回すどころか不要不急の路線を休止させ、余剰となったレールを供出させる始末でした。

 その一方で、国内の貨物輸送は鉄道に集中していました。内航船舶は米軍による攻撃が激化し、同時に使えそうな船舶は海軍などに徴用され、ほとんど麻痺していたのも同然と言った状態でした。当然、軍部は鉄道省(後に運輸通信省)に輸送力の強化を迫りました。

 旅客列車を削減し、貨物列車の増発と1列車あたりの輸送力の強化を続けていましたが、それでも車両が不足する状態が続いていたようです。有蓋緩急車も増備をする必要に迫られていましたが、ワフ25000は車体に鋼材を使っていたので、それが不足する中での増備は困難になってしまいました。

 鉄道省から国有鉄道を引き継いだ運輸逓信省は、ワフ25000の設計をそのままに、車体を木造とした有蓋緩急車を1944年から製造することにしました。これが、いわゆる「戦時設計」といえるワフ28000でした。

 ワフ28000の基本構造は、ワフ25000と大きく変わるところはありませんでした。積載荷重は8tとされ、車両の4分の3、床面積が11.5㎡の有蓋室でした。残りは車掌室とされ、床面積4.35㎡という狭い中に執務用の椅子と机が後方を向いた状態で設置されていました。この広さは、畳に換算すれば約2畳半ほどなので、いかにその狭さがおわかりいただけるでしょう。

 この点では、ワフ25000と同じものでしたが、問題は車体の材質と構造でした。鋼製車体はリベットまたは溶接によって組み立てられるので、隙間風も最小限に抑えることができ、車体強度も保つことができます。一方、木造車はフレームに板を嵌め込んでいくため、車体強度はフレームのみに頼ることになります。また、板をはめ込む工法では、板と板の間に隙間ができやすくなり、走行中に車内に入り込む隙間風は鋼製車体の比ではありません。

 この点で、ワフ28000への乗務は車掌にとって過酷だったと想像できます。特に冬季は冷たい隙間風にさらされることになった車掌にとって、ワフ28000は「寒泣車」だったといえるでしょう。また、戦時設計であるがゆえに、製造の資材を極力節約し、工法も簡略化したため、車体強度もワフ25000と比べて劣っていたことは否めません。

 第二次世界大戦終結後、1946年まで全部で250両が製造されたワフ28000でしたが、代用資材を多用した戦時設計の車両を製造する必要がなくなったことで、その後はワフ21000を基本に改良を加えたワフ22000に移行していきました。

 戦後もワフ28000は運用が続けられましたが、木造車であること、車掌室の執務スペースが狭いことからその環境が当時の有蓋緩急車の中でも、もっとも劣悪だったことからワフ22000の増備とともに早々に整理されることになり、鋼体化も二段リンク化も施されることなく、1968年のダイヤ改正までに全車が廃車となり形式消滅していきました。

ワフ28000の形式図。基本的なレイアウトは前作ろなったワフ25000とほぼ同じであるが、車体を構成から木製に変えられた。戦局が厳しくなり、鋼材や燃料油といったものは軍事物資として軍に優先的に割り当てられたことで不足しつつあり、代用材料となる木を使う戦時設計に改められた。側面はフレームと強度を保つために斜めに設置された補強材は鋼鉄だが、壁面はすべて板をはめた構造になった。車掌室もワフ25000譲りの狭さに加え、車体壁面が板をはめながら積み上げていたので、隙間風が侵入しやすくなり、冬季の乗務は想像を超える過酷さだったと想像できる。(ワフ28000 出店:貨車形式図 1953年 日本国有鉄道車両局)

 

■再び車掌室重視の設計に戻ったワフ22000

 戦時中に内航船舶から陸上輸送へ重点を移したことで、鉄道省、運輸逓信省が製造した有蓋緩急車は積載量を重視し、車掌の執務環境は二の次の設計となったワフ25000やワフ28000が大量に増備されました。

 しかし、これらの車両はわずか2畳半ほどの狭さの車掌室で、車掌にとって過酷な乗務環境だったことは否めませんでした。戦時中ならこうした環境も我慢できたことでしょうが、その戦争が終われば労働環境の改善は急務となっていったと想像できます。

 こうして、戦前に車掌の乗務環境改善を目指して製造されたワフ21000の設計を基本に、車掌室の設備を充実化したのがワフ22000が製造されたのでした。

 ワフ22000はワフ21000と同様に、車掌室重視の設計だったため、有蓋室の積載荷重は2tに抑えられ、床面積は5.3㎡、容積は11.7㎥と小さいものでした。この容積は、国鉄が最初期に製造保有したコンテナである5000形といった1種10ftコンテナの14.3㎥と比べると、その小ささがわかるといえます。

 その一方で車掌室は7.35㎡にまで拡張され、ワフ21000と同様に二人用の執務机と椅子、そして1,820mm✕520mmの休憩用長椅子が設けられました。これに加えて、ワフ22000には冬季の乗務に備えてストーブも設置され、乗務環境は劇的に改善されたといっていいでしょう。

 戦時中に製造されたワフ25000やワフ28000では、車掌の出入り扉は側面に設けられていましたが、ワフ22000はデッキが再び設置されたことで、そこから車内に入ることができるようになりました。

 有蓋緩急車に付き物といえる後部標識灯は、製造当初はデッキへの設置が省略されていました。この理由として、あくまで推測ですが、戦後の混乱期で資材不足の影響を受けていたと考えられます。その代わりに、乗務する車掌が可搬式の標識灯をデッキのフックに引っ掛けて標示していたようで、そのための蓄電池に繋がったケーブルとコネクターが設置されていました。これは後年になってデッキ部に標識灯が本設置され、車掌がいちいち標識灯を設置する手間が省かれました。

 1968年のダイヤ改正、いわゆる「ヨン・サン・トオ改正」では、貨物列車の最高運転速度が65km/hから75km/hに引き上げられることになり、ワフ22000もその対象になりました。走り装置を従来の一段リンク式から二段リンク式へ改造されることになりましたが、全車にこの改造が施されたのではなく、全製造数975両のうち46両が一段リンク式のままとされ、形式もワフ122000と改称の上、低速車を表す黄色帯を巻き、補助記号「ロ」が追記されました。そして、1974年から製造が始められたヨ8000に置き換わる形で、1976年までに老朽化のため全車が廃車となっていきました。

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ワフ22483 ©Rs1421, CC BY-SA 4.0, 出典: Wikimedia Commonsp>

ワフ22200の形式図。ワフ21000とほぼ同じ設計であるが、乗務員の作業環境を高めるために新製当初からストーブが設置されていた。車掌室も広くなり、車掌にとっては良質な車両だったが、営業側から見れば1両に載せることができる貨物の量が少なくなる欠点があった。これを解決するため、貨物室と車掌室の見取りを適正化させたワフ29500へと発展していった。(出典:国鉄貨車形式図 1975年 日本国有鉄道

 

《次回へつづく》

 

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