旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨物列車の最後尾を飾った有蓋緩急車たち【6】

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《前回からのつづき》

 

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ブルトレの最後尾も飾った荷貨物兼用高速貨車 ワサフ8000(その2)

 ワサフ8000はワキ8000を基本に設計されているため、貨物室は軽量なアルミ合金のプレス鋼板の総開き構造とされましたが、車掌室を設置した分だけ貨物室の長さも減ったため、ワキ8000ではプレス鋼板扉が片側4枚だったのに対し、ワサフ8000は片側3枚でした。そのため、積載荷重は21トン、パレットは24個から18個に減ったものの、装着している台車はインダイレクトマウント式空気ばね台車であるTR203を装着していたため、最高運転速度95km/hでの走行を可能にしていました。

 ワサフ8000の車掌室は、二軸貨車の有蓋緩急車とは一線を画する設備をもっていました。その一つがトイレです。パレット輸送を中心とする列車は、基本的に拠点間輸送によることとしました。これは、現在のコンテナ貨物列車とほぼ同じで、発駅から着駅まで原則として停車駅を設定しない、設定してもごく限られた地域の拠点となる大規模な駅にのみ停車するものです。そのため、一度列車が発車すると次の駅までは相当な時間がかかるため、乗務する車掌の執務環境を考慮した設備でした。

 

ワサフ8000の形式図。魚腹形台枠の上に車体を載せている構造は貨車そのもので、貨物室はワキ8000と同じ構造とし、その後位側に車掌室を設けている。車掌室には長距離乗務に備えてトイレが設置され、反対側には貴重品室も設けられた。背もたれのある椅子と執務机が設けられ、ワフ29500と比べると面積は狭いが、調度品は客車とほぼ同じものになっているので、執務環境は保たれていたと考えられる。(出典:国鉄貨車形式図 1971年 日本国有鉄道

 

 車掌室の中には執務用の机と椅子が二組設置されていました。その椅子は、ワフ級有蓋緩急車に設置されていた丸椅子ではなく、ボックスシートの幅を切り詰めた背もたれのあるもので、休息用としても使えることを考慮したものと考えられます。

 この他には、車掌が乗務することから貴重品室も備えられていました。荷物の中には郵便でいうところの書留に相当する保管管理を必要とするものもあったようで、荷物車の車掌室にはこうした設備が備え付けられました。その点では、ワサフ8000もほかの荷物車と同様に施錠ができる貴重品室があったのです。

 ワサフ8000にはワフ級にはあったストーブがありませんでした。せっかくトイレも付、座席もゆったりと座れるものにするなど、車内の設備は大幅に改善されても、ストーブがないのでは冬季の乗務は過酷を極めてしまいます。

 ワサフ8000では、冬季の暖房として、貨車でありながら蒸気暖房や一部には電気暖房も設置されていました。これらの暖房装置を設置したことで、面積が限られた車掌室にストーブを設置する必要がなく、冬季は寒さと闘わずに乗務することができました。

 また、台車はダイレクトインマウント式の空気ばね台車であるTR203を装着していました。ワキ10000に代表される10000系高速貨車は、高速走行時に生じる揺れを軽減し、荷崩れなどを防止することを目的に、貨車としては異例の空気ばね台車を装着しました。そのため、空気ばねに圧縮空気を送るための元空気溜め管などといった特殊な装備が必要となり、連結相手となる他の貨車も同じ装備を持つものでなければ、その能力が発揮できないなど運用に制約がありました。ワサフ8000は基本的に荷物列車や客車列車に連結されることが多かったようで、そうした運用上の制約を回避できたと考えられます。また、この空気ばね台車であるTR203を装着していたことで、乗務する車掌も貨車特有の激しい揺れに苦しまずに済んだようで、後に製造されたコキフ50000の激しい動揺が車掌の乗務環境を著しく悪化させたとして労働争議の対象になったことと比べると、やはりこの台車による恩恵は大きかったと言えます。

 こうした貨車としては特異な設備を持ったワサフ8000は、荷物輸送の合理化を推進したパレット輸送用荷物車とともに、多くの荷物列車などに連結されて活躍します。また、荷貨物兼用車というコンセプトであることから、通運事業者の小口混載貨物を積む有蓋車としての運用もあり、そうした列車の最後尾にも連結されました。

 ワサフ8000の中でももっとも特徴的な運用は、やはり特急「北星」に連結されたことでしょう。「北星」は上野と盛岡を結ぶ寝台急行として、1963年から運転が始められました。当初は10系客車で組成された列車でしたが、一時はスハ43系の座席車やスハ32系に属するスハネ30を連結していた時期もありましたが、基本的には10系客車でした。

 その「北星」は、1975年になると特急への格上げとともに、使用される車両も20系に変えられました。この特急格上げと20系への変更とともに、荷物車としてワサフ8000が連結されたのです。貨車でありながら、客車列車の、それも特急列車に連結されるという例は、国鉄で数多く運転されていた列車を見渡しても、この「北星」とワサフ8000の他には見当たりません。

「北星」に連結されることになったワサフ8000は、20系に併結されることになったため、特殊な仕様で製造されました。20系は高速運転を実現させるため、ブレーキ装置にARBE電磁自動空気ブレーキを装備していました。このブレーキは、自動空気ブレーキの減圧指令に電気信号によって作動する電磁吸排気弁を併用し、その応答性を高めたものでした。

 この特殊な構造のために、20系は連結する機関車に電磁吸排気弁を作動させるための電気回路とその制御装置が必要となり、いわゆる「P形改造」を施された機関車が限定で運用されていました。

 この特殊なブレーキ装置を装備した20系に連結するため、ワサフ8000も通常のCL自動空気ブレーキではなく、CLE電磁自動空気ブレーキを装備し、電磁弁を作動させるための電磁指令ブレーキ回路の引き通し線と、元空気溜め管も装備しました。ほかのワサフ8000とは大きく異なるブレーキ装置などのため、8800番代に区分されるとともに、側扉は銀色から青15号に塗られてひと目で区別できるようにするなど、外見・性能ともに大きく違いました。

 このワサフ8800は全部で3両が製造され、「北星」に連結されて上野−長町間の新聞輸送に活躍しました。しかし、この貨車と客車を併結した特異な運用は長続きせず、わずか1年で廃止されてしまいました。これは、東北自動車道が1975年10月に仙台まで開業したことで、新聞輸送もトラックへと転換されてしまったことによるものでした。ここでも、鉄道からトラックへシェアが奪われていき、ワサフ8800は特殊な装備をもって登場したものの、その使命はたったの1年で終わってしまった「悲運の貨車」の一つといえます。しかもワサフ8800は、すでに製造された車両からの改造ではなく、まったくの新製車だったというのですから、まさに1年で本来の用途を失うというのはあまり例がありません。こうしたあたりも、巨額の赤字に苦しむ中でも「必要なら作る。資金は利用債を発行してでも賄う」という、コスト感覚の鈍った国鉄ならではの発想だったといえるでしょう。

 高速性能を持ち、空気ばね台車を装着したワサフ8000は、国鉄が製造した数多くの有害緩急車の中で、もっともよい設備をもった車両でした。しかし、国鉄の貨物輸送はトラックにシェアを奪われ続け、1984年のダイヤ改正で大規模な貨物列車の整理と合理化が実施され、数多くの貨車が用途を失い余剰と化します。ワキ8000・ワサフ8000の基になったワキ10000は、ほとんどが用途を失って廃車の運命をたどり、機能停止をした操車場などに留置されて、解体場への列に並んで「運命が尽きる」のを待つようになります。

 ワキ8000・ワサフ8000は荷貨物兼用車として製造されたため、1984年のダイヤ改正ではその運命が尽きることはありませんでしたが、それでも多くの余剰車が出たことは想像に難くないでしょう。また、宅配便の台頭によって国鉄の荷物輸送は急激にシェアを奪われ、1980年代に入ると荷物輸送も急激に減少が続き、1986年のダイヤ改正国鉄は荷物輸送から原則として撤退、用途廃止により廃車となってしまい、短期間ながらもブルトレの最後尾を飾った残念ながらワサフ8000はJRへ継承されたものはありませんでした。

 

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