《前回からのつづき》
■増備車は荷物室をさらに拡大 カニ24 100番代
24系25形は二段式寝台を備えたことから、居住性が従来の寝台車と比べて格段に改善されたことが好評だったようで、分割併合を伴う多層建て列車を除いて、三段式寝台を備えて老朽化・陳腐化が進む20系を更に置き換えていきました。
1977年には「あさかぜ」の下関便と「瀬戸」、呉線経由の「安芸」が20系から24系25形に置き換えられることになり、電源車が不足することから1977年から1980年にかけてカニ24が増備されました。
このときに増備されたカニ24は、東京発着の列車の荷物取扱量が増加していたこともあり、荷物室の積載荷重をさらに拡大して0番代の3トンから5トンに引き上げられ、同時に荷物室の面積も拡大したため、新たに100番代に区分されたのです。
この荷物室の拡大に伴って、車体長は0番代の18,500mmからさらに1,000mm延ばされ、全長が19,500mmになるなど大型化しました。また、可能な限り製造コストを軽減させることを目的に、最後尾の妻面は製作工数を軽減させた切妻構造となり、貫通扉も新たに設置されました。この貫通扉は、編成の中間に連結されても乗務員が容易に往来ができることを考慮したと考えられます。
加えて、0番代ではテールサインの周囲を白で縁取りがされていましたが、100番代ではこれを省略しています。また、0番代と同じステンレスの帯を巻いていましたが、テールサインの両側にあった「ヒゲ」の飾帯は設置されず、非常にシンプルな印象を与えました。
また、0番代では前位側に連結された車両にのみ電源の供給ができる構造でしたが、100番代は前位側、後位側の両方に電源供給が可能な構造に改められました。
100番代は品川客車区と下関運転所に配置されましたが、品川配置の車両は少なく、「あさかぜ」1・4号に原則として充てられたほか、下関配置車は関西発着の列車の運用に使われました。
1987年の分割民営化後は、JR東日本が継承した車両のうち2両が「北斗星」の運用に就くことから、0番代と同じく冬季の北海道の過酷な気候に耐えられるように、酷寒地仕様に改造されて500番代に編入されました。
荷物室の荷重を0番代の3トンから5トンに引き上げ、面積も拡大して積載量を増加させた改良増備車である100番代は、工程数の削減によるコストを縮減させることを目的に、オハネフ25と同様に貫通路付きの切妻になった。車体長も長くなったため、側面の窓割りも異なり、台車も増加した重量等に対応するため金属コイルばねを使ったTR69を装着していた。(©永尾信幸, CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)
■異端者再び 重装備だったカニ22を再改造したカニ25
分割併合を伴う多層建て列車の運用を容易にした、分散電源方式の14系は北陸トンネル列車火災事故を受けて、緩急車の床下に設置されているディーゼル発電ユニットが「火災の原因になりかねず危険」と指摘されたことで増備が中止となり、集中電源方式の24系に製造が移されました。
しかし、この措置は多層建て列車の20系からの置き換えにも影響を及ぼし、1975年のダイヤ改正で関西−九州間の寝台特急の中でも、「あかつき」はそれまで7往復も運転されていたものを、山陽新幹線の全線開通で大幅に整理され、3往復に削減されました。この改正後「あかつき」は1往復が大阪−長崎・佐世保間の運転で肥前山口で分割併合を行うことから、14系が充てられていましたが、残る2往復のうち「明星」と併結することになった1往復は鳥栖で分割併合が行われ、こちらも14系が充てられていたので問題にはなりませんでした。ところが、「明星」と併結するもう1往復は同じ鳥栖で分割併合を行うにも関わらず、14系ではなく24系25形が運用に充てられたのです。
この原因は、前述の14系の製造中止と24系への移行によって14系が車両不足に陥り、やむなく24系25形を充てたためでした。しかし、「あかつき」は佐世保行き、「明星」は熊本行きなので鳥栖での分割併合は避けられなかったため、20系時代と同じくここで電源車を増結して対応することになりました。
20系時代はこうした運用では、簡易電源車であるマヤ20を増結して電源を賄っていましたが、1975年の時点でマヤ20は全廃されていました。もっともマヤ20に搭載されていた電源ユニットは、直列8気筒・排気量17リットルのDMH17C-GまたはDMH17S-Gディーゼルエンジンと、出力125kVAのPAG7または165kVAのPAG7Aを搭載していたため、電力の供給量に不安があったためか、そもそも旧型客車を改造したため老朽化が進行していたためかは(あるいは、そのどちらとも)わかりませんが、国鉄はマヤ20を活用することは考えなかったようです。
他方、20系は急行列車へ格下げにして運用を続けましたが、その多くはマニ20やカニ21を改造したカヤ21を電源車として運用していた一方、パンタグラフと電動発電機、ディーゼル発電ユニットを搭載し、客車の中で重量級となり扱いに難儀したカニ22は余剰となっていました。
そこで、すでにパンタグラフと電動発電機を撤去して、ディーゼル発電ユニットのみになっていたカニ22を、24系の電源となる三相交流440Vを供給できるように改造されて24系に編入したのがカニ25でした。
改造とは言っても大掛かりなものではなく、搭載していた電動発電機のコイルを巻き直しして、20系時代の三相交流600Vから440Vに電圧を落としたことと、パンタグラフが設置されていた跡にガーランドベンチレータが追加したい程度で、車体そのものはカニ22時代のままでした。
そのため、曲線を多用したデザインと、テールサインも五角形でアクリル板交換式のオリジナルのままだったこと、更には塗装も14系以降に採用された青20号地色と白1号帯ではなく、20系時代の青15号地色とクリーム1号帯のままだったため、カニ25は編成に組み込むと非常に目立つものでした。
もっとも、必要最小限の改造で済ませたのは、カニ25自体の運用期間が短いことが想定されていたと考えられ、実際に3年後の1978年からは24系25型に準じた設備をもち、ディーゼル発電ユニットに消火設備を設置するなど防火対策を施した14系15形の製造が始まり、24系25形で運行されていた「あかつき」「明星」の1往復はこれに置き換えられました。
また、この頃の国鉄の財政はもはや改善の見込みがないほどの莫大な債務を抱えていて、短期間で運用が終わることが想定されていた車両に、本格的な改造を施すほどの予算を割くことができなかったと考えられます。搭載していたPAG1電動発電機をコイルの巻き直しという方法で発電電圧を変えたことも、改造コストを最小限に抑える意図があったと考えるのが自然でしょう。
この電源車としては異端だったカニ22改めカニ25は、「あかつき」「明星」の14系15形への置き換えとともに1両が廃車、残る1両は長崎客貨車区から向日町運転所に配転され、カヤ24とカニ24の予備車として「彗星」「明星」に使われたあと、1984年に廃車となり形式消滅したのでした。
余剰となったカニ22を、発電機のコイル巻き直しによって24系に電源を供給できるようにしたカニ25。車体には一切手を加えられていないので、20系時代のまま新鋭の24系に連結したため、非常に目立つ存在だったことが伺われる。(©永尾信幸, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)
《次回へつづく》
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