旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

期待された救世主のはずが 短命に終わった悲運の客車【5】

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《前回のつづきから》

 

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 1987年に国鉄が分割民営化され、旅客会社6社と貨物会社1社、さらに付帯する事業を営む2社と財団法人1法人に事業が継承されますが、50系は製造からの経年が浅すぎたため、そう簡単に余剰廃車とすることはできず、JR東海を除く旅客5社に継承されていきました。

 もっとも、分割民営化直後は、地方幹線のローカル列車にも客車列車の運用が残っていたので、あながち無駄な車両を引き取らされたというものではありませんでした。ただ、運用数に対して車両の数が多く、需要と供給のバランスが悪かったことは否めないでしょう。

 民営化後もしばらくの間は活躍の場があり、それなりに重宝されていた50系でしたが、国鉄以来の機関車牽引による列車は運用コストが高く、民間企業になった旅客会社では可能な限り早くこうした高コストの列車を削減したかったのです。

 1988年に開業した青函トンネルは、50系にとっても一つの転換期でした。

 ここを走る快速列車には、専用の客車を充てることになり、比較的車齢の若い50系に白羽の矢が立ちました。

 上段下降・下段上昇のユニットサッシは、開閉できない1枚固定窓へ交換され、さらに屋根上にはAU13系列の分散式冷房装置を装備。車内も固定式ボックスシートから転換クロスシートに交換されるなど、居住性が向上しました。また、車体も赤2号から青20号に塗り替えられ、区分も5000番代になりました。いわば優等列車と同等の設備をもつ客車へと変化を遂げ、当時日本中から注目された青函トンネルを走行する快速「海峡」として運用されました。

 「海峡」用として改造を受けた50系5000番代は函館運輸所に配置され、4両編成を基本に多客時には12両編成を組むなど、寝台特急も顔負けの堂々たる威容を誇って、本州と北海道の間を結びました。

 あまりにも好評で車両が不足すると、北海道内に残されていた50系51形からも転用改造されるものも出て、同じく5000番代に区分されましたが、冷房装置は落成当初は装備していないものもありまた。後に50形と揃えることと、接客サービス水準の向上のために、AU51集約分散式冷房装置を搭載しました。

 この「海峡」用の5000番代は2002年に列車が廃止されるまで活躍し、50系の中ではひときわ輝く存在だったといえるでしょう。

 経年の浅い50系は、「海峡」意外にも様々な転用改造の種車になりました。

 JR北海道保有した50系51形のうち、オハフ51はあろうことか気動車化の改造を受けました。乗務員室が車両の両端にあり、しかも乗務員扉を備えているという構造を利用しての改造でした。

 そもそも客車にディーゼルエンジンを載せて気動車化する発想は国鉄時代からありましたが、国鉄制式のディーゼルエンジンは効率が悪く非力なDMH17系が主力で、鈍重な客車に非力なエンジンの組み合わせでは、到底成功するよしもなかったのです。

 しかし分割民営化後、旅客会社は非力な国鉄制式エンジンから、低燃費で低排気量、そして小型軽量ながらも強力なエンジンを採用しました。そのことと、50系が軽量だったことも相まって、オハフ51に出力250PSのDMF13HSを搭載し、さらに乗務員室の構造を最大限に活用して運転台を設置するなどし、キハ141系気動車へと変貌を遂げたのでした。

 

製造から長くて10年、短いものでは4年ほどと車齢があまりにも若いにもかかわらず、電車化・気動車化の進展によって、多くの50系客車は用途を失い余剰車となってしまった。こうした「資産」の運用は、国鉄がもっていた「悪しき体質」の一端を表していたといっても過言ではないだろう。しかし、分割民営化によって50系客車を継承した一部の旅客会社は、新車導入をする財政基盤が整っていない時期に、余剰と化した50系客車の活用を考えて行くことになる。JR北海道が50系51形客車のうち、乗務員室を備えたオハフ51を活用して気動車化した、キハ141系はその中でも成功例の一つといえる。札沼線沿線の人口増加による輸送量の増強のために、小型軽量で強力なディーゼルエンジンを搭載したことで、札幌都市圏における旅客輸送の一端を、同線の電化まで担い続けていた。(キハ143 101[札ナホ] 札沼線新琴似駅 2011年11月22日 筆者撮影)

 

 ほかにも荷物車であるマニ50も改造種車とされ、例えばJR東日本保有するマヤ50は、老朽化した建築限界測定用試験車であるオヤ31の後継として、当時の最新技術を盛り込んだ試験車として登場しました。このマヤ50は今日も健在で、同社の試験車であるE491系に組み込まれて活躍しています。

 また、ジョイフルトレイン「ゆう」の非電化区間乗り入れ用の電源車として改造されたマニ50 2186は、改造当初は「ゆう」の運転に合わせて組み込まれていましたが、やがて控車になるなど多彩な運用に就いていました。しかし、ジョイフルトレインの需要の低下や車両そのものの老朽化によって順次姿を消していく中で、マニ50 2186だけは残って配給列車の控車代用としてつかわれました。しかし、その運用も消滅すると保留車となってしまいましたが、あろうことか再整備を受けて東急電鉄に譲渡されました。もっとも、この荷物車を東急電鉄の路線で運用するのではなく、東急電鉄保有東海道本線伊東線伊豆急行線で運用していた「THE ROYAL EXPRESS」を北海道の観光列車として活用するための電源車として譲受したもので、コロナ禍もあって運転本数こそ減少しましたが、所期の目的通りに北海道内で運転される観光列車に組み込まれて活躍をしています。

 この他にも改造転用の例は多くありますが、原型をとどめているのは真岡鐵道に譲渡されたオハ50・オハフ50でしょう。こちらは車体の塗装こそぶどう色2号に塗り替えられましたが、国鉄時代から大きな改造が施されていないほぼ原型にちかいものです。SL列車の客車として運用され、2021年現在も唯一、原型を留める50系客車だといえます。

 このように、国鉄時代からその行く末はけして明るいものではなく、老朽化する旧型客車の置き換え用という目的はあったものの、電車化・気動車化を推進している国鉄の方針とは相反しながらも、現場からの声に押される形で登場した50系は、結局のところ運用コストが高くつく運転方式のために早々に用途を失いつつありました。分割民営化後もしばらくは運用が残っていましたが、それでも電車化・気動車化の波には抗えず、車齢20年にも満たずに用途を失ったものの、それでも気動車化改造を受けたり、SL列車用に転用されたり、あるいはトロッコ列車になったりと所期の目的とは違うものの、多彩な活躍をするようになりました。

 

国鉄・JRにおいて多くの50系客車が余剰となって廃車という運命を辿る中で、一部は観光列車などで活用するために改造を受けることになった。一方、原形を留めた50系客車は、徐々にその数を減らしていくことになる。しかし、一方で地方私鉄に譲渡された例もあるが、そのどれもが今日では姿を消していった。真岡鐵道は蒸機列車を定期的に運行する地方私鉄の一つであるが、旧型客車や14系、12系を運用することが多い中で、ここでは50系客車が比較的原形のまま運用されている唯一の例といっても差し支えないといえる。塗装こそ、赤2号からぶどう色2号へと塗り替えられているが、2022年も3両の50系客車は健在である。(©JobanLineE531 (TC411-507), CC BY 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 筆者も鉄道マンになって九州に赴いたとき、同期の職員と一緒に出かけるため門司駅で列車を待っていると、415系や811系ではなくDD51に牽かれた50系だったのに驚いたことを思い出します。ほとんどの客車列車は電車や気動車に移行していたと認識していたので、鮮やかな赤色に塗られた50系を見たときには、同期の職員と思わず声を上げたものです。とはいえ、これが最初で最後の50系乗車の機会であり、当の50系にしても最後の活躍だったのかもしれません。

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

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