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筆者がいまの仕事に就いたのは2004年のこと。JR貨物を退職してから19年ほど経ってからのことですが、鉄道マン時代は封印していた鉄道を趣味の対象にするのを解禁しました。この間も鉄道とは関係のない仕事をしていたので、趣味に加えるチャンスはあったのですが、なぜか遠ざかっていたのでした。
生活にある程度余裕が出てきたことも復活の理由の一つだったのですが、いまの仕事は端で見ている以上に苦労も多かったので、癒やしを求めて趣味として復活したのかも知れません。
さて、その2004年は筆者もまだ30代に入ったばかり。気力も体力もいまより自信もあったので、長期休業に入ると有給を使って青春18切符をりようした「鈍行旅行」を楽しんだものです。
特に東海道本線を西に下るのが好きだったので、この年も大阪を目指してひたすら普通列車に乗ったのでした。
この頃はJR東日本もJR東海も、まだ国鉄から継承した113系や211系などを東海道本線でも運用していたので、湘南色を実の纏った電車を見ることもでき、そして紺色のモケットのボックスシートもまだありました。
もちろん、このボックスシートに座って長い距離を乗るのが筆者にとっては楽しみでしたが、熱海で乗り換えてJR東海の区間に入ると、長い静岡県内を西に進む列車はやたらと長い時間をかけている気がして、最後はお尻が痛くなったのものです。もっとも、今となっては過去の出来事、座面のクッションが硬めだがスプリングを内蔵し、紺色のモケットを使ったボックスシートもなく、国鉄時代では当たり前に見ることができた湘南色の電車も、ウレタンだけを詰めた硬い座席に、ギラギラに光るステンレス車体の電車に取って代わられてしまいました。
その大阪往復の長い旅の帰り、浜松から長い時間をかけて乗ってきた列車から乗り換えるために沼津駅で降りると、そこには熱海行きの113系と、御殿場線の国府津行きの115系が乗客を待っていました。
時刻は既に18時近くだったので、昼間は照りつけていた太陽も西の空に沈みかけ、平日だったので通勤ラッシュの時間帯に差し掛かっていたこともあり、東海道本線のホームはそれなりに混雑していました。
一方、御殿場線はといえば写真からもわかるように、車内に日とは疎らで座席も空席があるのが窓越しに覗けます。そして、地方の都市部にある駅特有の、ローカル色が漂う少し物寂しい雰囲気が漂い、家路を急がなければと何かに背中を押される気持ちにもさせられました。
停車している113系と115系は、JR東海が国鉄から継承した車両で、21世紀に入っても現役で活躍し続けていました。既にこの頃には、JR東海が在来線の標準車両と位置づけた313系の増備が続けられていて、この年の春には211系と113系の独壇場であった静岡地区にも、313系が入り始めていて、この後数年以内には国鉄形は殆ど淘汰されていきました。
JR東海に継承された113系は、民営化直後は大きな変化がありませんでした。しかし、JR東日本に継承された113系とは異なり、比較的初期形の0番代も在籍するなど、経年の高い車両が数多く継承され、中には冷房化工事もされることなく非冷房のまま走り続けるのもいました。
しかし、非冷房のまま後継車両がやってくるまで走らせ続けるのは、サービス面で芳しいものではありません。国鉄なら「普通列車の冷房の必要性」を懇々と説いて、先送りにでもできたでしょう。ですが、巨額の財政赤字を切り捨てるために民営化したのですから、そのような言い訳もできるはずがありません。何より、民間企業になったのですから、接客設備を改善して乗客サービスを向上させていくのは、旅客鉄道会社としては当然のことです。
とはいえ、国鉄形の車両、特に非冷房で製造されたものは、冷房化改造をするには不向きな構造でした。国鉄時代に冷房化改造が遅々として進まなかった背景には、113系や115系のような近郊形電車には、AU75集中式冷房装置を使うことが原則だったことが影響していると考えられます。
AU75は、国鉄の通勤形電車や近郊形電車に標準的に使われる冷房装置で、冷房能力は42,000kcla/hです。頻繁にドアの開閉があるので、国鉄も冷房装置は強力なものを選択していました。分散式で多用されていたAU13の冷房能力は5,000kcal/hであれば、最低でも1両につき5基も必要でしたが、合計の冷房能力は25,000kcal/hにしかならないので、AU75を選択するのは当然のことでした。
《次回へつづく》
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