旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

気動車の新時代到来を告げたキハ85系【7】

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《前回からのつづき》

 

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■特急「ひだ」への投入

 1989年に登場したキハ85系は、名古屋−富山間を高山本線経由で結ぶ「ひだ」3・6号の運用に充てられました。最初は1往復のみの運用でしたが、すぐに増備車も登場して、翌1990年にはすべての「ひだ」に充てられるようになり、それまで老骨にムチを打って走り続けてきたキハ80系をすべて置き換えました。

 わずか1年で「ひだ」の運用を、キハ80形からキハ85系に置き換えたというのは、それまでの車両更新や置き換えの常識からすれば、驚異的な早さだったと考えられます。国鉄時代は車両の置き換えが始まると、数年の月日が必要でした。それは、限られた予算でできるだけ多くの車両を製造しなければならなかったことと、全国津々浦々に張り巡らされた鉄道網で、気動車だけでなく電車や貨車、そして機関車と車種が多岐に渡らざるを得なかったことで、運用に耐えられない車両から優先したため、時間がかかっていたのでした。

 しかし、民営化によって営業範囲が小さくなったことで、置き換えの対象になる車両も国鉄時代のように膨大でなくなったこと、そして、経営的にコスト意識が高くなり、効率性が求められるようになったことで、年に数両だけを製造するより可能な限り数多くの車両を短期間で製造するほうが、量産効果によるコストダウンが期待できることから、このような短期間での置き換えが実現したのでした。

 そして、「ひだ」の運用に充てられる気動車は、東海道本線で運用されていた113系などとは違い、あまり多くなかったこともその理由として挙げられます。113系115系を、後継となる211系5000番台や313系に置き換えるまでは相当数の時間をかける必要がありました。これは、運用される車両の数が膨大だったためで、新幹線の営業収益で潤沢な資金を擁するJR東海でも、やはり短期間での置き換えは不可能でした。しかし、キハ80系は「ひだ」と「南紀」のみで、その所要数は限られた数であったことも、1年での置き換えを実現させた要因の一つといえるでしょう。

 こうして、国鉄時代から「ひだ」に充てられていたキハ80系は、わずか1年でその舞台から降りることになり、以来、キハ85系がその主役となったのでした。

 キハ85系で運転されるようになった特急「ひだ」は、名古屋と大阪から高山本線を経て富山までを結び、途中にある飛騨地方の観光地を訪れる旅行客を中心に輸送しました。客室内の設備を改善し、客席からの眺望に配慮した「ワイドビューひだ」は、キハ80系時代よりも利用客が増え、その存在感を大きくしました。

 

冬の高山本線を走るキハ85系特急「ワイドビューひだ」(出典:写真AC)

 

 名古屋発着の「ワイドビューひだ」は全部で10往復、このうち富山まで運行される列車は4往復が運転され、飛騨地方や富山への旅行客にとっては貴重な足となっていました。また、大阪発着の「ワイドビューひだ」も1往復が設定されていて、関西から飛騨地方の観光地へ向かう貴重な特急列車として活躍しました。この大阪発着の列車は、大阪−米原間がJR西日本米原−岐阜−高山間がJR東海の路線を走る列車です。異なる会社間にまたがる列車は、分割民営化直後には数多く運転されていました。その代表例が寝台特急、すなわちブルートレインで、特に首都圏対九州間の列車はJR東日本JR東海JR西日本JR九州と4社間に跨って運行されていました。

 しかし、会社間を跨ぐ列車の運行は、利用客から収受した運賃や料金を各会社の走行距離に応じた割合で分配することや、深夜に列車が停車(運転停車を含む)や通過するために駅員を勤務させなければならないなどコストがかかること、そして客車列車であるために加速や減速といった運転曲線が電車列車と大きく異なり、特に通勤ラッシュの時間帯になるとダイヤの編成上でネックになるといったこともあり、利用者も減少し車両も老朽化したことから今日ではすべて廃止になってしまいました。

 こうした国鉄からの置き土産のような長距離列車はほとんど姿を消した中で、「ひだ」や名古屋−米原−金沢間の特急「しらさぎ」は、国鉄時代から脈々と運行され続けてきた貴重な列車といえるのです。

 

《次回へつづく》

 

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