旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

悲運の貨車〜物流に挑んだ挑戦車たち〜 【番外編】4年でお役御免になった悲劇の郵便車【6】

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《前回からのつづき》

 

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 そして、1986年3月1日、国鉄最後のダイヤ改正を控えて、郵政省は鉄道による郵便輸送を全廃し、すべてトラック便などへ移行させました。これによって、クモユ143もすべての運用から退き用途を失い、1982年9月に新製してから4年ほどしか経たない1986年10月に廃車となる運命を辿ったのでした。

 用途を失い余剰車となったクモユ143は、鉄道車両としては稀に見る短命でした。通常、鉄道車両の税制上における減価償却期間は18年、実際に使用に耐うる寿命は20年から40年ほどです。特に、国鉄時代に製作された車両の多くは民営化後も長く使われ、少なくとも30年、長いものだと半世紀近くに渡って運用が続けられました。そして、全般検査を一度として受けることなく、ほとんど真新しい状態での廃車は、廃棄物の削減や再利用などが叫ばれる今日の価値観に照らし合わせると、あり得ないほどのできごとでした。

 クモユ143が登場した1982年の段階で、そう遠くない将来に鉄道による郵便輸送は廃止されるであろうという見通しがなされていたと考えられます。この点から、巨額の費用をかけて車両を新製したものの、わずか3年半での廃車は費用の無駄遣いだったと言われても反論の余地がないものです。いくら郵政省の郵便事業が独立採算制だとしても、これほどの無駄な投資はなかったと言えるでしょう。

 また、クモユ143の悲運はこれで終わりませんでした。同じ143系に分類されるクモニ143やクモユニ143は、郵便荷物輸送が原則として廃止になり余剰となった後、国鉄はこれらを旅客車化改造を施してクモハ123として活用しました。廃車解体の瀬戸際で、新たな使命を与えられて再生していったのとは対象的に、クモユ143は郵便車、それも取り扱い便用の特殊な構造であることと、そもそも郵政省の予算で製作した私有車であることが災いし、旅客車として再生することはありませんでした。新車同然に近いクモユ143を譲受し、さらに特殊な構造であるため旅客車化改造をしたところで相当な費用がかかるため、国鉄にとってクモユ143を引き取る理由がなかったと考えられます。

 こうして、クモユ143は全車が解体されてしまいました。いわば、郵政省と国鉄の都合でその生涯を翻弄された悲運な車両と言っても過言ではないかもしれません。

 

■終わりに

 かつて、長距離の郵便輸送は鉄道が担っていました。郵政省は鉄道による送達に対応するため鉄道郵便局を設置し、ここに郵便車に乗務することを専門とする職員を配置し、郵袋ごと列車に載せて車内で区分・仕立て作業をしていました。

 そのため、窓が極端に少ない専用の設備を備えた郵便車や、一見すると荷物車と変わらない外観をもった誤送便・締切便用の郵便車が多数在籍し、日本の郵便サービスを支えていたのです。

 現在でも、長距離の郵便送達の一部は鉄道によって行われています。しかし、かつての郵便車のような特殊な構造の車両ではなく、鉄道コンテナに載せられて輸送されるその形態は、締切便に近いものだと言えるでしょう。

 スユ16やスユ15、クモユ143は郵政省の予算で制作された私有車であること、特殊な構造であることから、余剰車となっても国鉄が引き取ることはありませんでした。国鉄にとって、わざわざ譲受のための費用をかけ、さらに旅客車化のためには大規模な工事を施工しなければならず、改造にかかるコストも高価になると見積もられたのでしょう、ほぼ新車に近いとはいっても引き取るメリットがなかったのです。

 そうした事情から、短命で終わった悲運の車両たちですが、郵便という物流の一端を担った功績は決して小さくはなかったのです。

 

かつて、国鉄の郵便荷物輸送は「全国津々浦々のユニバーサルサービス」だった。当時はこのような言葉はなかったが、公共企業体たる国鉄だったからこそ、こうした輸送サービスを続けることができたといえる。写真のように横須賀線の単線区間にも、郵便荷物輸送が行き届いていた。(©Hahifuheho, CC0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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