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私鉄の電気機関車というと、どのような車両を思い浮かべるでしょうか。
国鉄時代の鉄道貨物全盛期なら、多くの私鉄でも貨物輸送が行われていました。私鉄の駅でも、国鉄のように貨物取扱駅となっている駅も存在しました。そこから、貨物を積んだ貨車が機関車に牽かれて、国鉄との連絡線がある駅から全国どこへでも発送することができていました。
残念ながら、現在では数えるほどしかありません。
かつて、大手私鉄でも貨物取扱量が多かった東武鉄道では、既に貨物輸送を廃止して久しく、静岡県の岳南鉄道では、パルプを積んだワム80000がほぼ毎日のように走っていましたが、車扱貨物を削減するというJR貨物の方針により、貨物輸送自体が廃止になってしまいました。最近では、日本で最後の石炭輸送を担っていた列車も荷主の都合で廃止になり、秩父鉄道もJR線から乗り入れてくる貨物列車が全廃。JR線との連絡線を含む貨物線の一部を廃止することになりました。
ちなみに秩父鉄道は貨物輸送をが全廃となならず、自社線内での貨物輸送は残っているので、電気機関車はいまも健在です。
一方、貨物輸送は行っていないものの、電気機関車を保有する私鉄があります。
蒸機の保存運転で名高い大井川鐵道では、10両弱の電気機関車を保有しています。
その理由は、蒸機列車の補機としての運用。動態保存とはいえ、製造から半世紀以上、ともすると1世紀近くも走り続けている蒸機は、3両編成程度の短い列車なら単機でも運転できますが、それ以上となるとさすがに力不足になる恐れがあります。無理に牽かせれば、機関車自体が傷んでしまうので、それを防ぐという意味でも電機による補助は必要だといえます。
大井川鐵道の電機は、大井川本線に限れば全部で3形式。オリジナルのE10と、西武鉄道から購入したE31。そして、変わって経歴を持つED500です。
西武から譲渡されたE31は別として、E10もED500も典型的な私鉄電機です。そのうち、ED500は何とも数奇な経歴の持ち主でした。
デッキ付の箱型車体に、ぶどう色2号の塗装はまるで国鉄の旧型電機そのもの。デッキは入換誘導をする駅員が立つだけでなく、ここから正面の扉を開けて運転士が機関車に乗り込むためにも使われます。
旧型電機の場合、デッキは先輪と呼ばれる部分に取り付けてありました。私鉄電機の場合は、先輪と先輪台車がないのでデッキは車体に直付け。連結器は台車枠に取り付けられているので、旧型電機とほぼ同じ動力伝達をしています。
さて、この写真に写るED500は、私鉄電機にありがちな数奇な経歴の持ち主です。
もともとはセメント製造を手がける大阪窯業セメントが、自社工場内にある専用線で運用するために「いぶき500」として製作しました。といっても、私鉄電機の場合、国鉄や大手私鉄のように自社で設計開発するのではなく、車両メーカーの標準設計を基にして製作するので、同業他社の電機と似たような性能とスタイルになります。
「いぶき500」の車体デザインは、国鉄の試作交流電機機関車であるED46 21の範となったそうです(前面が「いぶき500」は切妻形状に近いのに対し、ED46 21は折妻形状)。
「いぶき500」は、1956年に日立製作所で50t箱形車体をもつ機関車として製作されました。この機関車のネーミングはおもしろいもので、通常なら国鉄電機に倣って「ED」となることが多いのですが、「いぶき」と名付けています。これは、この機関車が活躍することになった専用線の由来になった伊吹山から採られたそうです。
「いぶき500」は竣工以来、その名の通り伊吹山を見ながら、大阪窯業セメント伊吹工場と近江長岡駅を結ぶ専用線でセメント輸送に徹していました。1987年の国鉄分割民営化後、接続相手はJR貨物に変わってもそれは変わらず、1999年にトラック輸送に切り替えられるまでの34年の長きにわたりました。
専用線が廃止になり用途を失った「いぶき500」は大井川鐵道に譲渡され、長年住み慣れた伊吹山を仰ぐ近江の地を離れ、富士山を仰ぐ静岡へとやってきました。そして、形式名も「いぶき500」から「ED500]へと改められ、大井川生え抜きのE10とともに、蒸機列車の補機として仕事を待つばかりとなりました。
ところが、翌2000年に「いぶき500」改めED500は、大井川で本格的に走り始めます。しかし、それは長くは続かず、その年に中部国際空港の建設で埋め立て用の土砂輸送で機関車が逼迫していた三岐鉄道に501号機は貸し出し、502号機に至っては売却されてしまいます。
近江時代とは対照的に、1年足らずで大井川から出されたのです。
その後、三岐鉄道に渡った2両の機関車は、中部国際空港の埋め立て用土砂を運ぶ助っ人として三岐線を走り続けます。とはいえ、空港建設のような事業に関わる貨物輸送は、目的が達成すればなくなってしまうもので、先は見えていたようなものでした。
2003年にはその役目も終わりになり、501号機は貸出機だったので大井川へと帰っていきました。502号機は三岐鉄道に売却されていたので、1965年の竣工以来、ずっと2両は一緒に過ごしてきたのが、ここで離ればなれになります。
大井川に戻ってきた501号機は、再び蒸機列車の補機として活躍し、今日に至ります。ですが、502号機は土砂輸送終了とともに用途がなくなり、そのまま静態保存となりましたが、2015年に解体されてしまいました。
その後も501号機は、大井川の畔を蒸機の後押しをしながら走り続けています。
稀に、EL列車として先頭にも立つことがあるE10に比べ、地味な存在ではあります。しかし、その出で立ちはE10とともに、国鉄の旧型電機を想起させるもの。とりわけ、角張った箱型車体は、戦後生まれのEF15の最終バージョンにも通じるものがあると感じるのは筆者(私)だけでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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