7.国鉄最後の交流電機・青函トンネル専用のED79
7-1 ED79登場の背景
1961年の着工以来、幾度の難工事を乗り越えながらも建設工事が進められ、1984年には青函トンネルの開業は1987年と発表されました。既にこの頃には国鉄が抱える膨大な債務が問題になっていて、それを解決するためには分割民営化をすることが決まりつつありました。
しかし、トンネルの開業が決まれば、国鉄としてはその準備をしなければなりません。そこで、ここを通過する列車はどのような方式にするかなどが検討されていきます。
そもそも青函トンネルは高規格路線としても建設されました。これは、将来新幹線を走行させることを考慮したためです。1984年当時、新幹線は東海道・山陽に加えて東北・上越が開業しており、青函トンネルは東北新幹線を延伸させれば運転は可能でした。しかし、東北新幹線は盛岡までが建設されたままで、青森までの延伸はいまだ計画にすらなかったのです。
そうなると、残るは在来線を通すことになりますが、総延長が50km以上にもなる超長大トンネル、しかも海底トンネルともなると、どんな車両でも走行できるというわけにはいかきません。
既に海底トンネルとしては関門トンネルがありましたが、こちらは総延長約3.6kmと短いものでした。そして、長大トンネルとしては北陸本線の北陸トンネルがあり、こちらの総延長は13,870m。約13kmと長いトンネルでしたが、1972年に走行中の急行「きたぐに」の車両から火災が発生し多くの犠牲者を出した「北陸トンネル火災事故」という苦い経験がありました。
そのため、国鉄としては北陸トンネルの5倍もの長さのある青函トンネルの運用に際しては、非常に神経を尖らせたといえます。
火災防止の観点からも、内燃機関を装備した気動車の走行は論外、電車か電気機関車に牽かれる客車・貨物列車のみがここを走行することができると決まります。ですが、これだけの長距離を、それもトンネル内という単調で特殊な環境の中、高速で走行させるとなると保安装置もまた従来の在来線よりも、さらに高いレベルのものが求められました。
(©金時 / CC BY 2.1 JP Wikipediaより引用)
この当時、国鉄の保安装置はATSが主流でした。しかし、ATSは停止現示の信号に接近すると車内警報音を発生させますが、運転士が確認扱いをすれば停止現示の信号機を超えることができてしまいます。
青函トンネルでこのような運転扱いをして、万一事故になれば大惨事につながりかねません。
そこで、青函トンネルの信号保安設備はATCと決まります。ATCは地上には信号機を設置せず、対応した機器を搭載した車両の運転台に信号機を設置しています。これなら、運転士が信号機を見落とすということは避けられるでしょう。
また、車内信号機が現示した速度を超えて運転を続けると、ATCが自動的にブレーキをかけて制限速度以下になるように減速させるか、またはブレーキをかけることで停止させることができました。
このように、トンネル側の施設にも細心の注意が払われましたが、ここを走行する車両についても北陸トンネルの苦い経験から、内燃機関を搭載した気動車の走行には一定以上の条件がつけられ、電気機関車や電車についてもATCを装備した車両でなければならないなど、車両側にも厳しい基準を課したのでした。
こうしたことから、青函トンネルを走行する列車のために、新たな電気機関車が必要となったのでした。
とはいえ、この頃の国鉄は既に財政は破綻状態に近く、念願だった青函トンネルですら新会社の手に委ねざるを得ない状態だったので、新規開発というわけにはいきませんでした。もっとも、新開発する時間などなく、例え時間があったとしても国の会計検査院がいい顔をするわけがありません。
そこで国鉄が目をつけたのが、近い将来大量に余剰となり廃車の運命を辿っていく交流電機の中で、比較的車齢の若いED75 700番代でした。
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