第二章 見えざる「安全輸送を支える」仕事・命を預かる役目・列車見張【8】
ところが、時間が経つにつれて輸送障害の状況が分かってくると、信号扱をする輸送係の顔色が変わってきた。穏やかな口調だった人が、声を荒げながら電話で話し始めたので、私は思わず飛び上がってしまうほどビックリした。。
今でこそ少なくなったが、通常は運転取扱いをする駅と駅の間には、専用の「閉塞電話」と呼ばれる通信設備がある。運転取扱いをする根岸駅の隣の駅は大宮方が桜木町駅、大船方が磯子駅だが、根岸駅との間にも、これらの駅の信号扱所を結ぶ閉塞電話が設置されている。この電話で、駅の信号扱所同士で運転状況の打ち合わせをするが、輸送障害などが起きたときは、情報交換などもする。
輸送係の先輩は、この電話で桜木町駅の信号扱所に対して声を荒げていたのだ。
「あのさあ、カモレ(貨物列車)の運転士さんは、ここで何時間も止められるんだよ。事故が蒲田と川崎の間なら、品鶴に行く貨物は関係ないだろう?だったら、そっちで(輸送)指令に、カモレを先に通せっていえば済む話だろうに」
「だから、カモレ[iii]を先に通せば、他の列車も再開すれば余裕出るでしょ?」
こんな話を、大声で半分怒鳴りながらしていたのだ。
桜木町駅との話を終えると、今度は輸送指令から電話が来る。すると、輸送係の先輩の怒りゲージは、一気にレッドゾーンに入ってしまった。
「んなことは分かってる!カモレを行かせられるなら、先に出せって言ってるんだ。カモレはずっと根岸線走るわけじゃないだろう?そんなこと知らんで、指令やっとルンか?カモレは鶴見から品鶴[iv]に行くし、先の中央や武蔵野のダイヤを乱すことにもつながるじゃないか!」
まあ、話せば話すほど、ヒートアップしていくものだから、傍らで立って聞いている私と来れば、そりゃあ居心地がいいはずもない。できれば、他の用事でも思い出して退散したいものだが、私の任務はこの場から離れることは許されない。
だから、苦笑いを浮かべ、冷や汗をかきながらじっと立って聞いているほかはなかった。
ここまで書くと、詳しい人ならお分かりになったと思う。
根岸駅を出発した旅客列車は横浜駅へ向かうが、貨物列車は高島支線へ分かれていき、東高島駅と新興駅を通って鶴見駅へと向かう。桜木町駅は分岐の駅となるので信号扱所がある「運転取扱駅[v]」なのだ。
だから、根岸駅の輸送係の先輩に言わせれば、ずっと根岸線を走ることがない貨物列車を、京浜東北線の事故のせいで長い時間、抑止させておくのは簡単だが、それでは貨物列車の機関士が大変な思いをする。それに、貨物列車の行く先である中央本線や武蔵野線、さらにその先である高崎線などにもダイヤの乱れを波及させかねない。だったら、たった3駅しか通らない貨物列車を先に行かせれば、根岸線の中も余裕ができて、ダイヤの乱れを取り戻すのも楽になる。それに、万一、品鶴線も止められていたとしても、途中の東高島駅や新興駅には列車を止めておくことができる施設がある。止められたとしても、直接関係ない線路なので抑止の解除も、京浜東北・根岸線に比べればはるかに早いというのだ。
なるほど、まさにプロの為せる業だと思った。
この輸送係の先輩は、目先のことだけでなく、貨物列車の機関士やその先に走っていく路線にまで考慮していたのだ。そればかりか、関係する路線の施設を把握し、万一、列車の抑止があっても、それが可能だということにまで、思いを至らせていたのだ。
「まったく、指令は何もわかっちゃいないし、駅の中にも目の前しか見えてない連中がいるから困るよ」
輸送係の先輩は興奮冷めやらぬといった感じではあったが、それでも私には苦笑いだけして見せてくれた。
こうして、隣の桜木町駅とはやり合い、輸送指令とは半ばけんか腰でのやりとりをしたとはいえ、機転を利かせて貨物列車を先に出すことができた。その一部始終を見ていた私にとって、「プロの仕事とはこういうもの」というのを知るいい機会だった。
それは、自分の目の前のことだけではなく、その周辺のことにまで気を配り、そして注意深く観察し把握し、いざというときは大胆に、そして的確活臨機応変に対応していくというもの。その精神は、この後、仕事を変えていったが、いまも脈々と息づいており、私の行動規範の一つになった。
[iii] 貨物列車の電報略号。鉄道では、日常会話の中に電報略号を使うことがある。「アトヨロ」や「レラ」などは、鉄道を離れて20年以上が経つにもかかわらず、筆者もいまだに使っている。
[iv] 品鶴線(ひんかくせん)のこと。山手線・品川駅-大崎駅間の分岐から西大井駅を経て、多摩川橋梁を渡り、新鶴見操や新川崎駅を通って鶴見駅に至る東海道本線の貨物支線。東海道本線の線路容量が逼迫したことと、新鶴見操車場を設置して都心部の貨車入換を担うことを目的に、1929年に開業した。現在では、横須賀線や湘南新宿ラインもここを通っているが、この名称で呼ばれることはほとんどない。
[v] 多くの駅や操車場、信号場では、出発信号機を備えている。この信号機がある駅には、信号扱所があり隣の駅と連絡を取り合いながら、列車の運行を司っている。こうした施設があり、信号扱をする職員がいる駅を、運転取扱駅とよぶ。