旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 三つの時代を走り続ける旧型客車・国鉄オハフ33

広告

 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 

 近年、静態保存されていた蒸気機関車を再整備して、動態保存という形で復活する例が多くなりました。つい最近では、京都・梅小路にある京都鉄道博物館に収蔵されていたD51・200号機が復元整備されて、山口線を走るようになりました。

 私鉄では、東武鉄道JR北海道からC11・207号機を借り受け、鬼怒川観光の目玉となる列車の運転を始めています。それだけに留まらず、真岡鐵道からC11・325号機を譲り受けたり、C11の私鉄同形機である江若鉄道が発注したC11の動態復元を始めたりしています。

 一方では、これら蒸機に牽かれる客車は、その多くが12系や14系といった比較的新しい(といっても、製造から既に40年近くは経っていますが)車両がほとんどです。これらは車体重量が旧型客車に比べて軽量であり、蒸機への負担が抑えられること。経年が浅い分、旧型客車を走らせるために復元にかかる費用や、運用にかかる費用を抑えられることが理由として考えられます。

 例外的に、JR西日本は平成の時代に旧型客車に準じた車両を製作しました。こちらは、12系を改造して使い続けてきましたが、さすがに21世紀に入って20年近くも経っていたので、老朽化と陳腐化が否めなかったのでしょう。

 

 蒸機が最盛期だった頃に牽いていた客車は、オハ33系やスハ43系がほとんどでしたが、これらの客車を蒸機と組んで運用しているのは、JR東日本と蒸機復活運転のパイオニアでもある大井川鐵道だけです。

 JR東日本保有する旧型客車は、運転される列車が限定されるため、必要最小限の車両のみとなっています。

 一方、大井川鐵道では、定期列車のほか繁忙期には臨時列車を運転したり、車両を増結したりするので、予備車や波動用の車両も保有しています。いわば、国鉄の運用形態に近いものがあるといえるでしょう。
 製造から50年以上も経った車両たちは、そのメンテナンスにも相当の苦労と技術、そして費用がかかります。特に交換用の部品などは、ほとんど特注品に近いことが容易に想像できます。財政的にも余裕がない地方の私鉄である大井川鐵道が、まとまった数の旧型客車を維持し続けていることは、特筆に値するものといえます。

 

 その大井川鐵道には、オハ35系やスハ43系が数多く在籍しています。

 中でもオハ35系は、外観だけでもバリエーションが豊富です。第二次世界大戦前に製造された丸屋根車、戦後に製造された丸屋根・溶接構造のもの、そして製造工程を簡略にした折妻車。大まかにはこの3つのタイプですが、細かく分けるとかなりの数に分けることができるので、趣味的にもおもしろいところです。

 

f:id:norichika583:20200501231753j:plain

 

 さて、こちらのオハフ33。ご覧の通り、ぶどう色2号一色に塗られ、かつての国鉄客車列車を彷彿させる姿です。

 旧型客車の塗装は、ぶどう色2号と青15号の2つがありました。

 蒸機全盛期には、牽かれる客車も蒸機が吐き出す煤煙で汚れるので、汚れが目立ちにくいぶどう色2号が標準色だったといいます(戦前は、これよりもさらに暗いぶどう色1号が標準)。

 この写真のオハフ33も、屋根を見ると煤煙で汚れたのか、ほぼ真っ黒なのが分かります。それだけ、蒸機の吐き出す煤煙が車体を汚すことがお分かりいただけると思います。

 その後、近代化改造工事を受けた旧型客車は、識別のためもあって明るい青15号に塗られることになりましたが、このオハフ33はぶどう色2号なので、こうした近代化改造工事は受けていないことが分かります。

 

f:id:norichika583:20200501231757j:plain

 

 車端部には車籍や製造を表す銘板を取り付けていますが、少し驚いたのは一番上の銘板でした。ご覧の通り「日本国有鉄道」となっています。本来は大井川鐵道の車籍なので付け替えられても当然なのですが、できる限り原形を保とうとしたのか、それとも取り替えにかかるコストを削減しようとしたのかは分かりませんが、そのままになっていました。

 車籍の銘板の下には、二つの銘板がついていました。左側は「昭和16年 川崎車輌」と陽刻で書かれています。このオハフ33は、第二次大戦直前か直後かに製造されたことが分かります。つまり、1941年の製造なので、既に80年近くも走り続けているのには驚きしかありません。

 さらに右側には、1948(昭和28)年に大宮工場(現在の大宮総合車両センター)で改造を受けていることを示す名盤もありました。どのような改造工事が施されたのかは分かりませんが、大規模な改造整備を受けていることは間違いないと言えます。

 

f:id:norichika583:20200501231803j:plain

 

 車内に入ると金属部品を多用した近代化が施工された車両と違い、ボックスシートの枠や窓の枠、さらには窓周りの壁面など、多くがニス塗りの木でした。木は温かみがある素材ですが、軽量金属と比べるとどうしても重量が嵩むという弱点をもっていました。写真を見ても、金属特有の無機質な感じはしません。

 今日ほど難燃化構造が厳しくいわれなかったため、このような木製の部品を多用することができたのでした。加えて、当時は金属は大変貴重なもので、可能な限り代用品である木や竹などといった材料を使っています。

 網棚もまた、文字通り繊維の紐を組んだ「網」になっています。これで重さのある荷物を乗せても大丈夫なのかと思ってしまいますが、今のようにスーツケースなんてものがなかった時代にはこれで十分だったのかも知れません。

 旧型客車は冷房装置などという装備がなかったので、屋根の構造も寝台車のように深くて曲線を描くものでした。この深い構造のおかげで、天井の圧迫感がなく、車内では広く感じることができました。また、暖かい空気は上の方へと昇っていく性質があり、日光に照らされて熱をもちやすい屋根を客先から遠ざけることで、特に夏季などは乗客に厚さを感じさせないようにした工夫があったと思われます。とはいえ、やはり暑いときは暑かったようですが。

 その天井に取る付けてある扇風機も年代物といった感があります。冷房装置に軸流式送風機が一般化した今日、天井に扇風機を創部した鉄道車両は多くありません。

 

 第二次世界大戦直前につくられ、戦火を潜り抜け、戦後の混乱期や高度経済成長期など、旅客輸送が旺盛だった時代に多くのお客さんを乗せて走り続け、さらに仲間のほとんどが廃車・解体されていく中、大井川鐵道で安住の地を得たこの車両は、その後、平成、令和と3つの時代を、蒸機めあてに訪れる大奥の観光客を乗せて走り続けました。

 蒸機という主役に対して、客車はともすると脇役です。しかし、旧型客車たちは、吉日の雰囲気を今でも体感させてくれる貴重な存在で、映画でいえば名助演俳優といったところでしょう。

 誕生から既に80年近くとなり、老朽化も心配される今日この頃ですが、無理だけはさせずにいつまでも走り続けて欲しいと思わずにはいられません。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

あわせてお読みいただきたい

blog.railroad-traveler.info 

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

 

 

#蒸気機関車 #大井川鐵道 #客車 #旧型客車 #35系 #オハフ33