旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 郷愁を感じさせる大井川のC10

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 桜の花もほぼ満開になり、勤務先の門に植えてある桜の木も、淡いピンク色に染まっています。晴れた容器のいい日には、その桜を見て「花見でもしたい」という気分になりますが、世界中を震撼させている新型コロナウイルスの影響で、それも叶いません。

 春は入学式シーズンです。入学式の日には、立て看板と桜の木をバックに一生に一度の思い出にと記念撮影をする光景も見られますが、今年はそうもいきません。とはいえ、一生に一度しか来ない小学校入学の思い出を残してもらおうと、入学式前ですが立て看板を連日出しております。

 もちろん、記念写真を撮る新入生とその親御さんの姿もちらほら。見えぬ先行きに神経を尖らせる日々ですが、こうした光景を見かけると、心も癒やされるものです。

 さて、こちらの写真。かれこれ、もう10年近く前になりますが、桜の咲く日に大井川鐵道を訪れた時のもの。千頭駅からやってきた金谷駅行きの上り急行「かわね路」号です。

 大井川鐵道といえば、やはり蒸気機関車(SL)でしょう。

 かつては鉄道の主役であった蒸気機関車も、国鉄の動力近代化計画と無煙化の推進によって次々と淘汰され、姿を消していきました。しかし、蒸気機関車が果たした功績と産業遺産としての価値。そして何より、鉄道を趣味とする人たちだけでなく、多くの人から人気を集める蒸機の観光価値に着目して、静岡県の地方鉄道である大井川鉄道(現在の大井川鐵道の前身。「てつどう」の「鉄」と「鐡」が異なる。)が日本で初めて復活運転をさせました。

 いまでは我が国でも有数の観光鉄道でもある大井川鐵道は、ほぼ毎日のように蒸機による観光列車を運転し、多くの人が訪れるようになり賑わうようになりました。

 そんな大井川鐵道の蒸機列車。筆者が小学生の頃は、鉄道雑誌で話題が取り上げられた時に触れる度に、「いつかはここに行って乗ってみたい」と思うようになりました。

 とはいえ、あまり裕福ではなかったこともあってか、なかなか乗りに行く機会を得ることができず、月日ばかりが過ぎていき、やがて大井川の蒸機のことすらも忘れてしまいました。

 それから20年以上が経ち、30歳を超えた頃にようやくその機会が訪れます。

 既に鉄道会社も辞め、いろいろな職を経てからいまの仕事に就いて3年目のこと。同期採用の若い職員が、鉄道に乗って旅をするのが好きなお嬢さんで、いつか蒸機が牽く列車に乗ってみたいと話していたのです。筆者も幼少の頃を思い出し、火の入った本物の走る蒸機を自分の目で見てみたいと思い、それならばと休業中の休日に出かけることにしたのです。

 そして、なるべく旅費を抑えようと、普通列車や快速列車を乗り継いで金谷駅に着くと、ここから元近鉄の車両に乗って家山駅へ。本当は千頭駅から乗りたかったのですが、何しろ普通列車の乗り継ぎで時間がかかるので、やむなく途中の家山駅から上りSL急行に乗ることにしたのでした。

 家山駅では列車の到着を待つ間、駅周辺を2人でお散歩。駅の周りにはきれいに花を咲かせた桜を見て回ると、やがて遠くから蒸機特有の汽笛の音が鳴り響き、家山駅の構内に滑り込んできたところを捉えたのが、この写真なのです。

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 やってきたのはC10。

 子どもの頃から大井川といえばC11だったので、そちらを期待していたのですが、さらに古い設計であるこのカマが入ってきたときには、少々驚きました。タンク機はC11とC12が胴体復元されていることを知っていましたが、まさかC10も動態復元されているとは思いもよらなかったので、ちょっと嬉しい気持ちと、大井川鐵道の蒸機への熱い思いが伝わってきました。

 この日、上りSL急行を牽いたC10は8号機。明治期に製造されたB6系列のC級タンク機が老朽化し、昭和に入って置換用として設計・製造されたのがC10で、それまでの古典機とは一線を画するものでした。

 それもそのはずで、鉄道省(当時)の主力機となっていったテンダー機の技術を大いに採り入れ、外観はもちろんですが性能も大きく進化しました。同時期につくられたC50などとも共通するものがあるようですが、外観を見る限りではB6に比べて近代的なスタイルです。

 といっても、よく見ると所々にリベット打ちがされていたのが分かります。こうしたあたりも、昭和のもっとも初期である1930年に製造された当時の技術を垣間見ることができます。

 そして、そもそもC10は製造数が極端に少ない蒸機でもあります。

 というのも、鉄道省が発注したC10は、たったの23両しかありませんでした。落成したのも同じく23両。大量に使われていたB6を代替するには、極端に少ない数であるといえます。

 都市近郊の旅客列車用として設計されたC10は、軸重がやや重いという弱点を抱えていました。都市部の本線や支線であれば、軌道も強固にできていますが、地方の支線などでは運転密度も低いため、軌道も都市部と比べると脆弱で、レールも軽量である10kgレールか37kgレールがほとんどでした。

 こうした軌道でできている路線では、通過する車両の軸重を制限しています。脆弱な軌道の上を、重量のある車両が高速で走ろうものなら、たちまち軌道破壊が起きて、脱線転覆という重大な事故を起こしかねません。

 そこで、C10を軽量化したC11に製造が移されました。

 そのため、1930年に発注された26両のC10は、その年のうちに全車が落成しました。大井川でいまも活躍する8号機もまた、1930年の製造です。といっても、最初の23両1ロットでC11に移行したので、後にも先にもこれしかありません。

 言い換えれば、23両しか製造されなかったC10が、全機解体されて消滅しても不思議でもない中で、奇跡的にこの8号機が残り、大井川で保存運転されているというのは、ある意味奇跡に近いでしょう。

 1930年に誕生した8号機は、大宮機関庫(現在の〔東〕大宮運転区)に新製配置されます。東北本線高崎線で活躍した後、高崎機関庫(〔貨〕高崎機関区)、仙台機関区(〔東〕仙台車両センター)、盛岡機関区(〔貨〕仙台総合鉄道部)と渡り歩きます。1961年に会津若松機関区(〔東〕会津若松運輸区)に配置になり、ここを最終配置に1963年に廃車になりました。

 当時の国鉄は動力近代化計画を進め、蒸機を電機やディーゼルに置き換える無煙化も推進していたので、廃車になった蒸機はごく一部の幸運を手にしたもの以外は、解体され鉄屑となっていきました。

 ところが、この8号機は解体を免れる幸運をてにしたものの、保存ではなく譲渡(当時は「払い下げ」といったようです)されたのです。

 8号機はかつての活躍の場であった岩手に戻り、ここにあるラサ工業という化学メーカーでした。宮古市にあるラサ工業宮古工場で、ここから出荷される製品を積んだ貨車を宮古駅まで運んだり、工場内で入換作業に当たるなど、地味な仕事をこなしました。

 やがて、工場にもディーゼル機がやってきて、8号機はほとんど使われなくなります。予備機となったまま運用を退き、1986年に二度目の廃車となります。

 ところが、二度も廃車される運命にありながら、8号機は再度幸運を手にしました。奇しくも国鉄が分割民営化された1987年、ラサ工業から宮古市に譲渡されます。観光列車として使うため、修復された後、分割民営化からたった17日しか経っていない4月17日に動態復活をしたのです。

 旧国鉄の線路を観光列車として走る日々でしたが、様々な事情もあって1990年に三度運用を終えることになります。このまま8号機は廃車の運命を辿るかに見えましたが、8号機を保有する宮古市と、蒸機の保存運転に力を入れている大井川鐵道との間に譲渡の合意がなされ、1994年に長く住処にして働きの場であった岩手から静岡へと移っていきました。

 そして、長期に渡る修復作業を受けた後、1997年に大井川鐵道で三度復活し、今日に至ります。この時、8号機は製造から67年が経っており、還暦なんかとっくに過ぎている「老兵」でもありました。

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 廃車と復活を繰り返しながらも、大井川鐵道という安住の地を得た8号機。筆者がこの列車に乗ったのは、2007年だったので、既に77年もの月日が経っていました。とはいえ、こうして現役で走る姿に感動を覚えたものです。

 ところで、この当時の写真をご覧になって、気付かれた方も多いかと思いますが、上りSL急行を牽くC10は、通常の煙室側を前にしたものではなく、石炭庫側を前にした逆転運転をしています。

 こうした運転方法は、D51やC62のような大型のテンダー機では、運転台からの視界が悪く難しいもので、C10のような小型で後方の視界がよいタンク機ならではのものです。

 この当時は下り列車では煙室側を前にした通常の運転をしていましたが、千頭駅で折り返し上り列車として運転する際に、転車台で方向転換をしていなかったので、こうした逆転運転が常となっていました。

 運転区間が比較的短い大井川鐵道なので、小回りが効くタンク機の特性を生かした運用でした。こうした逆転運転も、2011年に新金谷駅構内に転車台が設けられたことで、千頭駅にあった転車台を活用して、常時煙室側を先頭にした運転に切り替えられ、過去の光景となってしまいました。

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 家山駅に到着した列車は、ぶどう色2号に塗られた旧型客車が、C10という蒸気機関車によく似合っていました。大井川鐵道は、牽かれる客車にも拘っていて、オハ35系やスハ42系といった客車を集めて、ほぼ現役当時の姿で走らせています。

 こうしたあたりも、日本で初めて上記の保存運転を始めた鉄道会社らしいと思うのは筆者だけでしょうか。蒸機だけは動態復元をさせても、客車はより軽量な12系や14系、50系といった客車が多い中、いわゆる旧客を運用するのは、他にはJR東日本だけです。ある意味、大井川鐵道のこだわりを感じさせますが、JR東日本のような巨大鉄道会社ならともかく、営業収入も比較にならないほど少ない大井川鐵道が、これだけの旧客を維持し続けるのは、並大抵の苦労でないことが窺えます。

 そして、C10から発する蒸機と、旧客独特の車体デザイン、そしてぶどう色2号という塗装に、さほど近代化されていない家山駅のホーム、そして満開の桜の木は、かつて我が国のどこにでも見られた光景なのかもしれません。

 それだけに、ノスタルジックな雰囲気は抜群で、郷愁を感じさせます。

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  この写真から既に10年以上が経ちました。

 家山駅のホームを眺める同期が手に持つものは、いまで言えば「ガラケー」。細かいところに時代を感じさせます。

 蒸機に乗りたいから連れて行って欲しいと頼まれた同期の職員も、既に二児のお母さんです。もちろん、お仕事は続けておられますが、これだけの年月が経つと、お互いに移動となり、勤める職場も異なります。

 かくいう筆者は、すでに4つめの職場となり、歳も50歳近く。年々、この頃のような無理も利かなくなりつつあります。

 一方で、C10の8号機は今年で90歳。幾度も廃車・解体の危機に遭いながらも、幸運にも恵まれて長きにわたる活躍を続けています。ここまで高齢になているので、所期の性能を引き出すことは難しく、電機の後押しは必要ですが、それでもよく整備され走り続けていることは特筆に値するのではないでしょうか。

 今年は桜が咲いても、この写真のように多くのお客さんが集まることはなかったと思いますが、来年、そしてまたその次の年も、こうして多くのお客さんを出迎え走り続けていくことを願うばかりです。

 

 今回も長文になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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#蒸気機関車 #大井川鐵道 #C10