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海峡下の電機の系譜【Ⅱ】 関門海峡を潜(くぐ)り抜けた直流電機・EF10《後編》

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 「海峡下の電機の系譜」と題したシリーズ構成でお送りするお話。今回はその2回目として、関門トンネルの初代電機EF10のお話の後編なります。書いているうちに段々長くなってしまい、EF10のお話は前後編の二部構成ですが、どうぞ最後までお付き合いいただけると嬉しい限りです。


4.EF10の投入

 4-2 関門トンネル用としてのEF10

  戦前の省形直流電機としては、比較的多い両数が製造されたEF10ですが、その中には直流電化で開業をすることが決定した、関門トンネル用として予め計画されていた車両もありました。

 25号機以降が関門トンネル用として製造されます。

 関門トンネルでは重連で運用することが前提となっていたので、25号機以降はこの対応のために重連総括制御装置を装備してつくられました。

 ただ、これらの関門用としてつくられたEF10たちは、最初からここでの運用には入りませんでした。というのも、肝心な関門トンネルは工事中だったので、製造当初は他のEF10とともに幹線での貨物列車を牽く任にあたりました。

 1941年に関門トンネルが開通すると、関門用としてつくられた25号機以降の17両は計画通りに配置転換となり、代替としてつくられたEF12にあとを託して大里機関区(→門司機関区)へと異動していきます。

 そして関門トンネル開業とともに、山陽本線幡生操・下関-門司間での運用に就きました。今日、ここを通過する列車の機関車の付け替える運用は、この時から始まったのでした。

  しかし、関門トンネルはEF10にとって想像以上に過酷な環境だったのでした。

 関門トンネルは海底下に掘られたトンネルとはいえ、漏水はかなりの量になっていたので、常にポンプで汲み上げて排水しなければなりません。この作業は開通から既に半世紀以上経った今日でも続けられています。

 そして、その漏水は山岳トンネルとは異なり、海水なので塩分を多量に含んでいるのです。

 塩分を含んだ水は、電気機器にとっては天敵ともいえる存在です。高圧電流が流れるところに塩水がかかると、化学反応を起こして金属類を腐食させてしまいます。パンタグラフなど露出する電装品は、運用を重ねていくほど劣化が進んでいきました。

 さらに、車体にも深刻な影響を及ぼしていきます。耐食性の塗装を施したといっても完璧に腐食を防ぐことはできません。まして塩水なので、塗装すらも食い破って車体をボロボロにしていきました。

 実際、関門での運用開始後に次々に不調に陥る車両が出てきたので、検修陣もその対応に忙殺されていきます。また、配置転換で再び東鉄局に戻った一部のEF10は、検査修繕のために大宮工場へ送ると、それを見た検修陣はあまりにも酷い状態に驚くほかなかったようです。

 また、EF10にとって関門での悩みは塩害だけではありませんでした。常に漏出する海水はレールを濡らしています。そして、連続20‰の勾配という軌道の条件で、重量の嵩む貨物列車を牽くEF10には、機関車重量が軽かったのです。そのため、頻発する空転にも悩まされることになりました。

 そこでEF10には、空転対策として5tの死重を搭載させて、空転防止の対策としました。

4-3 真打ち・関門対策のEF10

 これだけの悪条件の中、EF10は止まることはできませんでした。

 

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 関門トンネルが開業した1941年は、既に日中戦争が勃発していて、その年の12月には太平洋戦争へと突入していきました。軍需物資や兵員輸送など、鉄道は軍事輸送はもちろん、間接的にも戦争による貨物輸送は逼迫していたのです。つまり、貨物を運び続けなければならず、止まることが許されなかったのでした。

 しかし、大里(門司)に移ってきたEF10にとって、関門トンネルは非常に過酷な環境であることには変わりません。連日の運用で塩害、車体も電装品も言葉通りにボロボロになっていました。

 東鉄局に戻されたEF10は、パンタグラフや配線用の配管を新品に交換し、腐食でボロボロになった車体や屋根はその部分を切り取り、新しい鋼板を取り付けるなど、更新工事に等しい大規模な修繕を受けます。

 しかし、大里に残ったEF10は関門トンネルでの運用を続けなければなりません。

 パンタグラフや配管などは新品に交換するとともに、腐食に強い塗料を塗布しするなどして塩害対策を施しました。屋根や車体もボロボロになっていたので、腐食の激しい部分は切開して切り取り、新しい鋼板を取り付けて修理をしました。

 一方、普通鋼の車体は外板をすべて取り去り、変わりに腐食に強い性質をもつステンレス鋼を使った車体に変えました。そして、ステンレス鋼に変えられた車体は無塗装にしたため、当時の電機としても極めて異彩を放つ存在になりました。

 そして、関門仕様の電機は、原則として腐食に強いステンレス鋼の車体をもつという伝統は、このEF10から始まったのでした。

 更新工事に等しい修繕を受けたEF10は、引き続き本州と吸収を結ぶ重要な役目を続けます。当時としては出来得る限りの塩害対策を施した甲斐もあり、関門対策仕様のEF10は九州島内が交流電化されるまで門司に留まり、その役目を果たしていきました。

 

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4-4 関門対策仕様のEF10、その後

 第二次世界大戦が終わり、九州島内が交流電化されると、直流機であるEF10は門司駅構内を走ることができなくなりました。門司駅山陽本線の所属駅ですが、福岡県にあるという地理的な要因で、鹿児島本線に合わせて交流電化にされたからでした。

 1961年に鹿児島本線門司港ー久留米間が交流電化されると、門司駅構内も関門トンネル坑口付近に設けられたデッドセクションを境にして交流となり、直流機であるEF10は20年に渡るその役目を終えることになりました。

 本州ー九州間を結ぶ役目を終えた門司機関区配置の関門仕様のEF10は、新鶴見、沼津、稲沢第二、吹田第二の各機関区に配置転換され、門司に配置されなかった僚機らとともに主に東海道本線の貨物列車を牽く任に就きます。

 やがて戦後生まれの貨物機であるEF15の増備がされると、新型機に比べてパワーが劣るEF10は、増大の一途をたどり続ける貨物列車に対して性能不足となるとともに、過酷な運用を続けてきたこともあって老朽化が進んだこともあって、徐々に廃車になっていきました。

 1967年には東京、新鶴見国府津、八王子の配置となり、比較的連結する車両が少ない首都圏の区間列車を中心とした運用をこなし続けて生きながらえました。やがて新性能電機の決定版ともいえるEF65が増備されると、首都圏での運用も少なくなり、余剰となったEF10の一部は甲府機関区と豊橋機関区へと移り、軸重制限が厳しい飯田線身延線の貨物列車を牽くことになりました。これは、先輪のない新性能機よりも先輪をもったEF10は軸重が軽いということと、飯田・身延線の貨物列車の連結両数が少なく重量も比較的軽かったので、戦後生まれの電機に比べて出力が低くても運用をこなすことができたからでした。

 やがて、EF10も老朽化が進んだこともあって、1975年以降、廃車が進んでいきました。そして、1977年に東京機関区に配置されていた29・33号機が廃車されると、首都圏ではEF10の姿が消えてきました。

 EF10の中で最後まで活躍したのは豊橋機関区に配置されていた31号機でした。1979年に廃車となって、EF10は戦前からの長い歴史に幕を閉じ、形式消滅となってしまいました。

 すべてが廃車後に解体されましたが、1両だけは運良く解体を免れました。

 豊橋機関区で廃車になった35号機は、除籍後、北九州市に寄贈されたのです。

 35号機は斜体外板をステンレス鋼に取り替えられた関門特殊仕様の一両で、北九州市に寄贈されたことで、長く走り続けてきた九州後を再び踏むことができたのです。その後は門司区内の公園で展示されていましたが、門司港駅九州鉄道記念館が開館することになると、車体などを修復されてきれいな姿に蘇り、展示公開されています。

 

《海峡下の電機の系譜【Ⅲ】 世界初の量産交直流機EF30《前編》へつづく》

 

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参考文献:鉄道ピクトリアル 1965年12月号

国鉄 #関門トンネル #山陽本線 #鹿児島本線  #EF10 #旧型電機機関車