旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 白羽根は北の大地を駆け抜けた【後編】

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前回からの続き

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 北海道特有の厳しい冬に耐えることができる装備を施した781系は、電気機器の無接点化をはじめ、多くの新機軸が取り入れられた特急形電車でした。

 空調装置もその一つ。国鉄の特急形電車は基本的に客室の窓は固定窓で、開けることはできませんでした。これは、特急形電車には原則として冷房装置を装着するためで、夏にはわざわざ窓を開けなくとも、車内は冷房装置の効果で快適で過ごしやすい空気に満たされます。

 151系・161系(後に181系)に始まる特急形電車には、製造当初からAU12冷房装置が装備されていました。屋根上に載せられた装置のカバー(キセ)の計上から、いわゆる「キノコ形」と呼ばれるもので、1基あたりの冷房能力は4,500kcal/hでした。485系にもそれは踏襲されましたが、途中でAU13とパンタグラフ搭載車は集中式のAU72へと移っていきます。

 とはいえ、いくら冷房装置で快適な温度に保たれたとしても、混雑時などでは乗客の呼吸で出された二酸化炭素が充満したり、夏以外では冷房装置は使われないので、外からの新鮮な空気を取り入れる必要があります。485系までの特急形電車には、他の電車と同じく外気を取り入れ、車内の空気を排出するベンチレーターが標準として取り付けられいました。

 しかし781系では、ベンチレーターを装備しませんでした。北海道の雪は、乾燥した細かい雪質です。万一、冬季にこのベンチーレーターを開けて走ろうものなら、たちまち車内に雪が舞い込んできてしまいます。そこで、ベンチレーターは装備しないで、外気の取り入れ口車端部に設け、そこから車内に強制的に外気を送り込む「新鮮外気導入装置」を設けました。

 また、下記の北海道は本州ほど暑くはならないので、冷房装置は形式にとらわれず集中式のAU78を装備しました。AU78は冷房能力33,000kcalだったので、485系に使われているAU71の2万8000kcal/hや、分散式のAU13を5個搭載した場合の27,500kca/hよりも高いものでした。

 1978年に試作車が登場し、北海道の厳しい気候の中で走り続けることができるのかを、約1年ほどかけて特急「いしかり」として営業運転に用いながら性能試験をし、改善点などを洗い出した上、1980年に量産車が登場しました。

 量産車が登場するとともに、「いしかり」は「ライラック」と名前を変えて、室蘭-札幌-旭川と、北海道道央の主要都市を結ぶ都市間輸送に特化した特急列車として活躍します。

 そして、分割民営化直前の1986年のダイヤ改正では、新千歳空港ー札幌ー旭川間に新たな特急列車として「ホワイトアロー」が設定されました。新千歳空港から旭川方面へ直通する旅行者の利用を見込んで設定された「ホワイトアロー」は、まさに国鉄最後に誕生した優等列車の一つとなりました。

 

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©️spaceaero2 Wikipediaより引用

 1987年には国鉄が分割民営化され、北海道の鉄道はJR北海道に引き継がれました。当然、北海道専用として開発製造された781系も、札幌運転所に配置されたままJR北海道に継承されました。

  民営化後、引き続き札幌都市圏を中心とする道央の電化区間の特急列車として活躍しますが、やがて一つの問題が浮上しました。

 この頃、JR北海道では旅行客の利便性を高める列車の設定を相次いで行いましたが、特に新千歳空港から道内各地への旅客輸送に力が入っていました。それもそのはずで、かつては東北本線を長距離・長時間乗り続けて、青森で青函連絡船に乗り継ぎ、さらには函館から道内各地に向かう特急列車へ再び乗り換えるのが当たり前でした。

 しかし、青函連絡船は1987年に廃止され、本州以南と北海道の玄関口は函館から空路の新千歳空港へと移っていきます。新千歳空港で降り立った旅行客をみすみす逃す手はありません。ただでさえ経営基盤が脆弱なJR北海道にとって、もはや玄関口を函館に拘る必要はなく、空路で北海道入りする旅行客を取り込むためには、新千歳空港を玄関口にすることは重要なことでした。

 こうして、従来の運転形態にとらわれない発想で、新千歳空港-札幌間の空港連絡輸送を担う列車として、快速「エアポート」が設定されます。この列車には、民営化後に新製した721系を中心に運転されますが、札幌-旭川間の「ライラック」を延長運転する形で、781系も「エアポート」に宛がわれました。特急料金を払わなくても特急形電車に乗ることができる、いわゆる「乗り得」列車になったのです。

 ところが、この「乗り得」列車となる「エアポート」での運用が、ある問題を浮上させました。快速列車としての運転であることや、需要の多い空港連絡輸送であったことで、781系で運用される列車は乗降に時間がかかり、遅延が頻発するようになったのです。

 そこで、JR北海道781系に2ドアにする改造を施しました。国鉄時代、特急形は1ドアであることが原則でしたが*1781系はその原則を打ち破ったのでした。

 また、781系は登場したときからグリーン車の設定がなく、すべて普通車で組成されていました。しかし、特急形の車両とはいえ、すべて普通車というのは、営業上芳しいものではなかったようで、収益も頭打ちになっていました。そこで、座席を他の普通車とは異なる座り心地がよい「uシート」を設定しました。

 しかし長い間、過酷な環境のもとで運用され続けたため、2000年代に入ると老朽化が進んでいきます。さらに、後継となる車両となる789系1000番代の増備が進んだことと、「ライラック」を同車で運転される「スーパーカムイ」に換えたことにより、2007年に781系は登場以来30年弱の歴史に終止符を打ち、北海道の鉄路から姿を消していきました。

 北海道の過酷な環境に対応することに特化し、かつ北海道外での運用を前提としていなかった781系は、強靱な耐寒耐雪設備をもち、かつ国鉄としては珍しい交流専用車であったことは、国鉄形の中でも一際目立つ存在だったといえるでしょう。今日ではあたり前のように交流専用車がつくられていますが、財政の厳しい国鉄としては、交流専用車にすることは効率性が悪く、製造コストや運用コストの面でも不利になることは承知で、ある意味においてはコストを度外視してまでも導入したことは、かなりの大盤振る舞いだっといえるでしょう。

 いずれにしても、晩年は白系の塗装を身に纏って、その名の通り「白羽根」となり、多くの観光客やビジネス客にとって、781系は貴重な存在であり、白羽根の電車は酷寒の大地を駆け抜けていったのです。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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*1:例外として、直流用の183系や、普通列車としても運用することが前提だった185系は、製造当初から2ドアであった。