旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 老兵、青く染まらずただ去りゆくのみ【前編】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 相模鉄道というと、準大手私鉄から大手私鉄へと昇格(?)し、最近ではJR埼京線とも直通運転をはじめあるなど、何かと話題の多い鉄道会社です。大手私鉄とはいっても、運行する路線は神奈川県内にのみあり、複数の都府県に跨がらないという珍しい私鉄でもあるのです。

 神奈川県内にのみ路線を有するにもかかわらず、大手私鉄に分類される理由は、沿線の宅地開発が活発であることが、その一つとしてあげられるでしょう。かつては2~4両編成でも捌けた輸送量も、年を追うごとに6両、8両、そしてついには10両編成と長くなっていきました。

 戦後の高度経済成長期などを経て、相鉄の沿線は宅地開発が進んでいきます。沿線に住む人口もそれとともに増えたこと、そしていずみ野線を建設して路線延長を続けたことで、総延長100kmとなったことで1990年に準大手から大手へと昇格したのでした。

 その相鉄線。筆者は同じ神奈川県内に住んでいながら、あまり縁のない鉄道でした。というのも、高校に進学するまで相鉄沿線に出かけることがなかったことと、出かけるとすれば渋谷など都内が多かったためでした。ですから、高校時代にお付き合いのあった女性が相鉄線沿線に住んでいて、遊びに行くようになって初めて相鉄線に乗るようになったのです。

 その相鉄線を走る車両は、当時の筆者にとって何となく「垢抜けない」というのでしょうか、どこか地方私鉄の雰囲気を持っている感じがしたのです。考えてみれば、東急や京急などのように、路線延長がそれほど長くなく、必要な車両数が限られることや、財政的にもそれほど潤沢とはいえなかったのでしょう。過去に活躍した車両の機器類を再利用し、20m級の大型車体に更新したものも入り交じっていたため、「見た目は同じだけど中身が違う」といった車両が入り乱れて走っていたため、そのように感じたのかも知れません。

 そんな当時の相鉄では、主力は6000系と呼ばれる鋼製車でした。ただ、この6000系も製造年次によって構造が大きくことなり、初期の車両は裾絞りのない直線の箱形スタイル、後期の車両は車体幅を限界である2,900mmにまで広げた裾絞りのある拡幅スタイルと、これまた百花繚乱といえば大袈裟かもしれませんが、バラエティーに富んでいたのでした。

 その中で、7000系は最も新しい車両でした。軽量なアルミ合金製の車体でしたが、デザインはといえばコスト軽減をねらったのか、非常に堅実な切妻スタイル。しかも、前面には高運転台の前面窓と貫通扉を備え、表示幕と前灯・尾灯を取り付けただけという、何ともあっさりしたスタイルでした。

 ところが、この7000系も後期増備車になるとデザインが一変しました。

 いずみ野線の延伸とともに、輸送量は増加の一途を辿り続けていたので、もはや8両編成では捌ききれなくなったことや、路線の延伸によって所要数が不足してきたこと、そして列車の増発に対応しなければならなくなったことで、1986年から増備された7000系はデザインを大きう変えて登場しました。いわゆる「新7000系」と呼ばれる車両たちです。

 

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 2018.7.12 西谷-鶴ヶ峰(筆者撮影)

 

 新7000系は、車体の材質は在来車と同じアルミ合金製でした。基本構造に大きな変更はありませんでしたが、前面デザインはそれまでの無機質な切妻に窓とライトを付けた程度のものから、窓周りは凹みを持たせた黒色ジンガード処理された、当時の流行を取り入れたものへと変わりました。

 もっともメカニズムの面では在来車を踏襲しています。相鉄の「伝統」ともいえた直角カルダン駆動は継承され、独特な走行音はそのまま継承されました。また、新7000系が製造されていた当時、ほかの大手私鉄では採用が進んでいたチョッパ制御は採用されず、伝統的といいましょうか堅実な抵抗制御のままでした。

 台車も相鉄は特徴的でした。通常、ブレーキ装置は電動台車が制輪子で車輪を抱きかかえるようにする踏面ブレーキを、付随台車は車輪内側に取り付けられたディスクブレーキを採用するのが一般的でした。ところが、相鉄は軸箱の外側に着きだした車軸にブレーキディスクを剥き出しにした、ディスクブレーキを標準的に採用していました。そのため、台車からはまるで鏡のように磨き上げられたブレーキディスクが丸見えという、一昔前のパイオニアⅢやエコノミカルトラックのような形態でした。

 そしてブレーキ装置もまた、相鉄は他の私鉄と異にするものが採用されています。他社では多くが電磁直通ブレーキ、さらには電機指令ブレーキを採用している中、電磁直通弁式電磁直通ブレーキ(日立式電磁直通ブレーキとも)という変わったブレーキを採用していました。これは、日立製作所が開発した独自のブレーキ装置で、電磁直通ブレーキとは似て非なるもの。当時の相鉄は日立との結びつきが非常に強かったため、こうした独特のブレーキ装置を装備していたのです。*1

 このブレーキは動作音がかなり独特だったのを覚えています。なにしろ、出かけるときに乗る電車といえば、東急の8000経過、横須賀線113系、たまに南武線の101系といった具合で、東急は電機指令ブレーキ、国鉄車は電磁直通ブレーキでした。ですから、電磁弁式電磁直通ブレーキは電磁弁が作動する音と、それとともにエアーが吐き出されるような音が組み合わされたような感じだったのです。

 

《後編へ続く》

 

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*1:相模鉄道が経営的に非常に困難だったとき、関係する他社に支援をもとめた際に、日立は積極的な支援を行ったという。このため、車両の新製や電装品、さらには駅の昇降機にいたるまで、日立製が多く採用されていた。一方、横浜市に本社工場を持つ東急車輌(現在の総合車両製作所)は、東急傘下の企業であり、相鉄も戦中戦後の一時期は東急の傘下にあったことから、一部の車両を同社に発注していた。もっとも、電装品は日立製であることに変わらなかった。一方、三菱電機などの他社は、相鉄の経営支援にあまりかかわらなかったため、後年、そのことが禍根となったために営業的に入り込む余地がないほど苦戦を強いられていたという。