旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

悲運の貨車~経済を支える物流に挑んだ挑戦車たち~ 自動車産業の発展に貢献・ク5000【3】

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《前回のつづきから》

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 しかし、1973年になると鉄道による自動車輸送は大きく変化しました。

 1972年には「アロー号」が1日25本も運転され、全国共通運用体制も整えられて多数のク5000が全国各地に新車を届け、年間79万台もの自動車を輸送していたにもかかわらず、この年から急激に輸送量が減少していきました。これは、自動車の需要が急激に落ち込んだというのではなく、自動車メーカーが新車の鉄道輸送を取りやめたのでした。

 この原因は、国鉄の労使関係が急激に悪化し、ストライキによる輸送障害が頻発するようになったため、鉄道輸送の優位性の一つであった定時制が損なわれたことでした。また、極度の財政赤字に苦しんだ国鉄は、貨物運賃を繰り返し値上げしたことで、コストメリットも失われてしまったのです。いわば、国鉄自身が大口の顧客を離れさせてしまったと言えるでしょう。

 こうして、一時は自動車輸送全体の30%を担っていた鉄道輸送も、衰退の一途を辿っていったのです。相次ぐ増発によってク5000も毎年増備が重ねられていましたが、1873年に増備された車両は、輸送量の急激な減少にさらされる形になり、増備そのものが無駄になってしまいました。このことは、後に会計検査院にも指摘されるなど、国鉄の見通しの甘さにもつながっていたのです。

 一時は旺盛な需要もあり、輸送量も多く毎年列車の増発と車両の増備が繰り返され、一時はその栄華を築いたかに見えたク5000ですが、輸送量が減少するとその特殊な構造からくる汎用性の低さから、他の貨物輸送にも転用ができず多数の余剰車が発生してしまいました。1973年に増備された車両に至っては、誕生したときにはすでに余剰車同然という悲運に見舞われたと言っても過言ではないでしょう。

 1975年に入ると、利用の少ない列車は次々と廃止されていきました。「アロー号」という貨物列車としては稀な愛称までつけられた自動車の貨物輸送も、この頃には往年の面影すらない有様になっていたのです。

 しかし、国鉄もそれを黙って指を咥えて見ているだけではありませんでした。なんとしても、残った自動車輸送をつなぎとめようと、できる限りの方策を講じました。その一つが、編成単位で運賃を割り引く制度の導入で、財政事情が極度に悪化していた国鉄にとっては文字通り「出血大サービス」だったのでした。そして、この運賃割引制度を利用したのが日産自動車で、宇都宮貨物ターミナル駅本牧埠頭駅間で専用列車の運転を始め、「ニッサン号」と名付けられました。これは日産自動車の栃木工場で製造された自動車を本牧埠頭まで運び、そこから海外へ輸出するための輸送手段だったのです。とはいえ、他の自動車メーカーが新車の鉄道輸送から手を引いた中で、日産だけが残ったことは国鉄にとってとても大きく、後に民営化によってJR貨物に移行した後も、日産自動車は大口の取引相手であり続けました。

 

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民営化後も運転が続けられた「ニッサン号」。ク5000はニッサンのコーポレートカラーであるトリコロールに塗り替えられた。(出典:急行越前の鉄の話 ©kyuukouechizen)

 

 1978年から運転された「ニッサン号」もそれほど長続きはせず、1984年には専用列車も3往復まで減少。そして1985年になるとその3往復も廃止になり、1966年から続けられてきた自動車の鉄道輸送は一度幕を下ろしました。

 こうして、ク5000は全部で930両が製造されましたが、20年も経たずしてその役目を失い余剰車と化していったのでした。とはいえ、用途を失ったにもかかわらず、1980年代にク5000の多くは廃車手続きが取られることなく、どういうわけか大多数が留置されたままでした。さすがに余剰となっている車両を運用せず、ただ留置されている状態に会計検査院から指摘を受けましたが、国鉄はク5000を活用してトラックを積載したカートレイン構想があり、それにク5000を活用する計画があると説明したそうです。もっとも、ク5000の構造から車高の高いトラックを載せることは難しく、載せたとしても大掛かりな改造が必要になることを考えると、一体どこまで本気でこの計画を実行しようとしていたのか疑問を差し挟む余地があるでしょう。*1

 1985年に全廃になった自動車の鉄道輸送は、それで途絶えるかにみえましたが、分割民営化を翌年に控えた1986年に、宇都宮(タ)−本牧埠頭間の「ニッサン号」が復活しました。そして、民営化に際しては必要最小限である64両がJR貨物に継承され、残りはすべて廃車*2となりました。

 1987年の分割民営化後も、宇都宮(タ)−本牧埠頭間の「ニッサン号」は運転され続けました。それどころか、バブル景気と日産の北米ブランドであるインフィニティの輸出が好調だったことを受けて、国鉄から継承した64両では足らず、国鉄清算事業団保有していて解体されてなかったク5000を購入することになりました。

 こうした事例はク5000に限らずEF65などでも見られました。そもそも鉄道貨物輸送は、分割民営化直前はほぼ壊滅的といっていいほど衰退していて、ただでさえ経営基盤が脆弱なJR貨物に、必要以上の車両を引き継がせることは、経営そのものに大きな影響を与えると考えられていました。

 かくいう筆者も、新鶴見操車場が機能停止し、余剰車が各地から集められて解体されるのを待っているという、言葉通り「鉄道車両の墓場」と化した光景を目の当たりにしたので、もはや日本の鉄道から貨物列車というのがなくなってしまうのではないかと感じたほどです。もっとも、まさか自分がそのJR貨物の鉄道マンとして働きだすと、貨物輸送はなくなるどころか輸送量が増えて手持ちの車両では間に合わないという逆の事態を目の当たりにし、多くの予想を良い意味で裏切ったことを実感させられました。

 そして、清算事業団から29両*3を購入し、整備した上で車籍復活させ、総勢で93両のク5000を保有したのです。

 もちろん、輸送力を増強し、顧客である日産の要望に応えるだけではありませんでした。民営化されたことの大きなメリットは、国鉄時代のように規則に縛られ、それに則ったこと以外は絶対にしないというのでは、物流サービス業としては失格になります。ある程度のサービスをすることは、顧客にとっての満足度を向上させ、ひいては新たなビジネスチャンスにつながるのは言うまでもないでしょう。

 ク5000は、国鉄時代はとび色一色に塗られていましたが、民営化後はこれを利用するのは日産自動車だけだったので、車体色を同社のコーポレートカラーである赤・白・青の三色、いわゆる「トリコロールカラー」に塗り替えたのでした。そして、日産専用列車であることをアピールするというサービスぶりには驚かされたもので、実際に筆者が勤務していた横浜羽沢駅には、理由は定かではありませんが何両かのク5000が留置されていることがありましたが、かつて書籍などで見たことのあるク5000と大きくイメージを変えていたのです。

 JR貨物の日産に対するサービスぶりはこれだけにはとどまらず、公用車も多くが日産車でした。例えばADバンやトラックのアトラスなど、現業機関で使う自動車は多くが日産車で占められていたのです。国鉄時代なら、公共企業体であるがゆえに物品の購入には可能な限り公平に複数の企業に発注していたのですが、民営化されたことでこうした制約もなくなり、可能な限り取引相手から物品を購入するという、あたりまえの商慣行ができるようになったからのことでした。

 ところで日産の自動車輸送は、栃木工場で製造された新車輸送が中心でしたが、その後は全国各地の工場からも輸送することが増え、一時は全国で運転されることもありました。まさに、1960年代に行われた自動車輸送の再現といってもいい状態になりましたが、残念ながら長くは続きませんでした。これは、JR貨物の輸送合理化施策により、可能な限りコンテナ化を推進したことや、ク5000自体が老朽化していたこと、さらには新車そのものの大型化によってク5000では積載できないこと、そして需要そのものが減少したこともあって、1995年までに「ニッサン号」の運転が消滅。その後はコンテナ列車や石油輸送列車に併結される形で細々と続けられましたが、これも1996年にすべての運用を終了し、ク5000はその役目をすべて終えたのでした。

 いずれにしても、ク5000は高度経済成長期からバブル景気の時期まで、日本の自動車産業を支え続けてきたことは間違いなく、民営化後も細々ながらも鉄道輸送のメリットである、大量輸送のちからを発揮して輸出車を運んだことは、日本の経済を発展さてきた「影の立役者」といってもけして過言ではないでしょう。

 また、今日でも細々ながらも、新車の鉄道輸送は続けられています。水島から発送される日産ブランドの軽自動車*4は、その多くがコンテナに積まれて全国各地へと運ばれているのも、ク5000による自動車輸送があったからだといえるでしょう。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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*1:国鉄は大量に余剰となったク5000を活用して、カートレイン構想を計画していたという。トラックを載せて輸送するネットワークを構築するとされていたが、説の域を出ていない。

*2:廃車解体されたク5000の台車は、クム80000やセキ8000に流用された。

*3:分割民営化を前に、国鉄は大量の余剰車を廃車とし、機能停止をした操車場へと送り込んだ。ここで解体される日まで留置された車両は、国鉄清算事業団保有となったが、DD13など一部の車両は臨海鉄道などに売却された。また、輸送力増強のために僅かながら買い戻され、整備・車籍復活の上、現役に復する車両もあった。

*4:日産自動車三菱自動車の合弁によるNMKVが設計し、三菱自動車水島製作所で製造されている。デイズとルークスが日産ブランドで販売されている。