旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

悲運の貨車~経済を支える物流に挑んだ挑戦車たち~ 自動車産業の発展に貢献・ク5000【2】

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《前回からのつづき》

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 開発当初は電化区間のみで運用することを想定していたため、カバーを掛ける計画はなかったようです。これは、蒸気機関車が吐き出す煤煙が新車である積荷にかかる心配がなかったためですが、実際には電化区間といえどもブレーキ装置にある制輪子から飛び散る鉄粉が車にかかり、新車の車体にこの鉄粉がかかり傷をつけたり汚したりしてしまうことがわかり、専用のカバーが常備されるようになりました。このカバーを掛けた車を満載にしたク5000を捉えた記録写真は多くの人が目にしたことと思います。

 積荷を貨車に積んだら、それを揺れなどで崩れたり、貨車から落ちたりしないようにしなければなりません。ク5000の緊締装置はタイヤガイドの脇に開けられた穴に緊締金具を差し込んでタイヤにかませ、前後方向への動揺を抑えるという非常に簡素なものを備え付けていました。緊締装置としては非常に簡素なものでしたが、大量の自動車を一気に積み下ろしするため、この簡素な緊締装置は荷役作業に大いに役立ったといいます。

 車体は全長20,500mmと貨車としては比較的長く、コキ50000と同じ大きさになりました。この大きさのおかげで、2000ccクラスの自動車であれば8台、1000ccクラスであれば10台、360ccクラスであれば12台も載せることができたのです。

 台車はコキ5500が装備していたのと同じTR63に、応荷重装置を追設したTR63Cをを装着していましたが、後期車は軸受をコロ軸に代えたTR222となり、走行性能を改善させています。

 1966年のダイヤ改正から本格的な営業運転に供用され、試験運用時の荷主であった日産自動車三菱重工業に加えて、トヨタ自動車ダイハツ工業富士重工、そしていすゞ自動車と日本の主要自動車メーカーが揃って新車輸送に利用するようになりました。背景として、この当時は高速道路網が整備されていなかったこと、キャリアカーが普及していなかったためで、その反面、モータリーゼーションが進展し自動車興行事態が急速に発達していたことがありました。

 

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EF60が牽く国鉄時代の貨物列車。機関車次位から数両のク5000が連結されている。(©Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commonsより引用)

 

 ク5000が営業運転開始された当初は、貨物列車の中に数量を連結させて運転されていましたが、この新車輸送は自動車メーカーにとって好評となり、翌1967年には早くもク5000だけで組成された専用列車の運転が初められました。荷主も東洋工業(→マツダ)、スズキ自動車、本田技研工業愛知機械工業(日産の子会社)が加わり、乗用車を製造するほぼすべての自動車メーカーが鉄道輸送を利用するようになります。

 こうした状況を踏まえ、国鉄はク5000を増備していきました。また、取扱駅も当初の籠原高崎線)、大宮操(高崎線)、川崎河岸(南武線)、横須賀(横須賀線)、厚木(相模線)、笠寺(東海道本線)、百済関西本線)、川西池田福知山線)の9駅だったのが、1970年時点では29駅にまで膨れ上がりました。

 

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1966年頃の川崎駅北側の航空写真。青色で囲ったところは六郷橋梁。そこから左斜め下には川崎駅が見える。川崎河岸駅は川崎駅より北へ3kmほどのところ、多摩川沿いにあった。南武線矢向駅から支線でつながっていて、かつては鉄道と水運の結節点だった。この頃にク5000が本格的に運用が始められ、川崎河岸駅も自動車輸送の拠点となった。(国土地理院地図・空中写真サービスより引用。解説のため筆者が追記。)

 

 そもそもク5000に自動車を載せるためには、前述のように大掛りな荷役設備が必要だったため、他の貨物とは異なりどこの駅でも扱えるというものではありませんでした。加えて、自動車をク5000に積み下ろしするためには、工場から送られてきたり、貨車から下ろしたりした自動車を一時的に保管する場所が必要です。いわゆる「モータープール」ですが、これのために広大な敷地が必要になります。これらの取扱駅にはある程度まとまった広さのモータープールが設けられまていました。

 また、1967年7月のダイヤ改正では、前述のようにク5000のみで組成された専用列車が設定されましたが、「アロー号」とう愛称もつけられたほどで、その数は18両から19両編成という今日のコンテナ貨物列車に匹敵するほどの輸送量を誇りました。それだけ需要が旺盛であったことが伺えますが、モータリゼーションの急速な進展が続いていた証左ともいえるでしょう。

 この旺盛な需要を捌くため、国鉄は「アロー号」を1往復増発させて4往復体制に拡充しました。また、北海道でも輸送が初められ、青函連絡船に載せられて津軽海峡を渡り、遠く北の大地・北海道にも自動車を載せたク5000が運転されたのでした。

 その後も自動車輸送はとどまることを知らず、翌1968年には専用列車の運転本数が1日17本にまで膨れ上がります。また、1969年からは専用列車だけにはとどまらず、区間別に設定された専用列車の設定から、ついには他の一般的な貨車と同様に全国で共通運用が組まれるまでになりました。1970年には運転本数が1日28本にまでになり、最大で20両編成を組むなど、国鉄は輸送力の確保に奔走し、ク5000は毎年増備が続けられたほどでした。

 このように、国鉄の自動車輸送は年を追うごとに増加の一途を辿り続け、輸送力を増強しなければ捌ききれないほどになっていました。いわば国鉄にとって、自動車メーカーは超大口顧客となり、自動車メーカにとっても鉄道輸送は重要な存在になっていたのです。

 

《次回へつづく》

 

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