旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 伝統の九特「富士」それは歴史の中に【3】

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〈前回からの続き〉

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 太平洋戦争の激化は、日本の国民生活はもちろんですが、鉄道にも大きな影を落としていました。不要不急の旅行は厳に戒められ、鉄道に期待されていたのは軍需物資の輸送と、出征する兵士の輸送でした。特に貨物輸送は軍部からも重要視され、輸送力の増強を幾度となく命じられていました。そうしたこともあり、栄光の特別急行列車「富士」は、三等車、さらには二等寝台車と三等寝台車を増結したものの、運転そのものが休止に追い込まれてしまいました。

 1945年に第二次世界大戦が集結し、国鉄の輸送も大きく変化しました。軍需物資を中心とした貨物輸送は大幅に減り、代わって復員兵輸送が重点に置かれます。しかし、戦時中に満足な検査や修繕を受けることができず、酷使し続けられた車両たちは疲弊し、中には戦前の面影さえないほどにボロボロになったものもあったといいます。

 そうした中で、さらに国鉄を悩ませたのが進駐軍の存在でした。

 配線により、日本の行政機能はほとんどすべてが連合国軍最高司令官総司令部GHQ SCAP、以下「GHQ」)管理下に置かれ、それは鉄道も同じでした。そのため、疲弊した車両の代替を作ろうにもGHQの許可がなければできない話で、GHQもそう簡単に車両の新製許可を出しませんでした。

 しかも、中でも状態のよい車両はGHQに接収されてしまい、進駐軍の軍人が専用に使う列車の運転に充てられてしまい、敗戦国の日本の国民はというと、戦時中に被災したいわゆる戦災車を無理矢理に復旧工事を施した、「戦災復旧車」でしのぐという惨めな有様だったのです。ですから、戦争が終わったからといって、すぐに「富士」は復活しなかったのでした。

 1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本はGHQによる軍政下から解き放たれ、国鉄をはじめとする鉄道事業者も自由に車両を新製できるようになりました。国鉄は接収されていた車両も徐々に解除・返還され、運行していた連合軍専用列車から特殊列車へと変わり、やがてそれらは普通の急行列車へと変わっていきました。

 こうした戦後復興の中で、少し時系列は前後しますが1947年には東京-門司・博多間にそれぞれ1往復ずつの急行列車が復活しました。1948年には東京-鹿児島間と東京-大阪間それぞれ1往復の急行列車が増発され、寝台車も連結されるというものでした。もちろん、そうそう簡単に寝台券が買えるものではなかったようで、主に外国人向けに販売した「売れ残り」の寝台券を日本人が購入できるという性格でしたが、それでも日本人が(お金さえあれば)寝台券を購入できるようになったというのは大きな出来事だったといえるでしょう。

 年を追うごとに急行列車の増発は続いていきますが、1949年にようやく特急が復活しました。しかし、その愛称では一悶着があったようで、誰もが栄光の愛称である「富士」が復活すると考えていたようでした。しかし、国鉄は「富士」の名を使わず、復活した特急には「へいわ」という愛称をつけました。

 これには、国鉄は日本を代表する列車名であるが故に、「それにふさわしい列車が出るまでは使わない」という方針をとったようで、その後も次々と特急が設定されていく中で、「富士」の愛称は使われず「温存」された状態が続くのでした。

 「富士」の長温存される中、東京対九州間の寝台特急列車は続々と増発が続けられ、1958年には東京-博多間を結んでいた「あさかぜ」が20系客車に置き換えられ、ブルートレインとして登場しました。1959年には「平和」を「さくら」に解消の上、「あさかぜ」に続いて20系へと置き換えられ、1960年には東京-西鹿児島間を走破していた「はやぶさ」も20系に置換えとなり、続々と20系化が進められていました。「走るホテル」とまで言わしめられた20系客車が登場してもなお、「富士」を名乗る列車は設定されないままとなっていったのです。

 ところが、誰もが伝統ある東京対九州間の寝台特急に名付けられるであろうと予想していた「富士」の名は、意外なところで復活したのでした。

 1958年に登場した151系電車は、それまでの客車によって運転されていた特急列車群とは異なり、機関車牽引の列車とくらべて加速性能がよく、しかも高速性能にも優れるという、従来の鉄道車両とは一線を画する性能をもたされた電車でした。動力分散式である電車の強みを最大限に発揮した列車の設定は、多くのビジネスパーソンに受け入れられ、東京-大阪間に設定された「こだま」は、6時間50分で運転されたのでした。この所要時間は当時としては驚異的で、それまで客車列車である「つばめ」や「はと」が7時間30分で結んでいたのを、一気に40分も短縮してしまったのです。さらに、1959年には10分短縮させ、多くのビジネスパーソンに支持された列車でした。

 

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151系による昼行電車特急として復活した「富士」。客車列車としてではなかったが、東京-神戸・宇野間を700km以上、さらには広島まで延伸して運転距離も800km以上にまでになり、電車による列車としては日本で最長の距離を走破した。この「最長距離」は、後に寝台特急になってからも続いた。
出典:ウィキメディア・コモンズ ©vvvf1025, CC BY-SA 3.0,



 

 その151系を使い、東京-神戸・宇野間を結ぶ特急列車として、なんと「富士」が充てられたのでした。これには「富士」の復活を期待していた人々から反発と疑問を投げかけられたようで、温存どころか機を逃したという意見もあったようです。

 とはいえ、「富士」は復活し、広島まで延伸した際には、当時の昼行電車特急としては最長距離となる894.2kmを走破する列車にまでなっていました。

 しかし、ここでも「富士」は長続きしませんでした。

 1964年10月のダイヤ改正で、東海道新幹線が開業するとともに、東海道本線で運転されていた昼行電車特急はその役目を新幹線に譲って廃止になり、151系による昼行特急「富士」も廃止されてしまいました。

 このダイヤ改正で「富士」の名は、いよいよ東京と九州を結ぶ寝台特急列車につけられることになり、1944年の休止以来、実に20年ぶりに再び東京対九州間特急の一員に復帰するのでした。

 

《次回へつづく》

 

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