旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

米軍専用線の返還に寄せて【1】

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  いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます

 少し前、今年の初め頃のことですが、在日アメリカ軍基地の一部を、日本への返還が報じられました。

 

www.kanaloco.jp

 

 在日アメリカ軍基地というと、多くの人は沖縄県をイメージすると思います。確かに、沖縄県には数多くの基地が今なお残っており、国内の在日アメリカ軍基地としては最も多くあります。

 意外に知られていないのが、2番目に多くあるのが神奈川県なのです。主なものを上げると…

 

○横須賀海軍施設(横須賀基地横須賀市
○厚木海軍航空施設(厚木基地大和市綾瀬市
横浜ノース・ドック瑞穂埠頭横浜市神奈川区
○鶴見貯油施設(横浜市鶴見区
相模原総合補給廠相模原市
○キャンプ座間(座間市
○根岸住宅地区(横浜市磯子区、南区、中区)
○池子住宅地区(逗子市)
○相模原住宅地区(相模原市

 この他にも、すでに機能停止あるいは返還されたところに、

上瀬谷通信施設横浜市瀬谷区
深谷通信所(横浜市栄区
○神奈川ミルクプラント(横浜市神奈川区
○横浜冷蔵倉庫(横浜市中区)
○小柴貯油施設(横浜市金沢区
○米軍出版センター(川崎市中原区
○横浜海兵住宅地区(横浜市中区)

 

 など、ざっとこのくらいになります。当然ですが、どこも日本人の立ち入りは厳しく制限されており、しかも基地の中は日本の法律ではなく、アメリカの法律が適用されるという、いわば「治外法権」のエリアです。

 そのため、ここで働く日本人の従業員(駐留軍基地日本人従業員)もまた、アメリカの法律に則って業務にあたるため、例えば基地を警備する日本人警備員は、アメリカ軍の警備兵とともに業務にああたるのですが、日本人といえども腰には拳銃を携帯しています。警察官でもなく、自衛官司法警察職員でもない彼らに拳銃を与えているのはアメリカ軍なので、基地の中に限ってはこのような国内では考えられないこともあるのです。

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神奈川県内には意外にも在日アメリカ軍基地は多い。それとともに、基地への兵站輸送の一端として、鉄道貨物輸送が担ってきていた。写真は相模原市にある相模総合補給厰のゲートで、手前の踏切と線路はJR横浜線のもの。かつては、横浜線も貨物輸送が行われており、相模総合補給厰への専用線も存在していた。(出典: ウィキメディア・コモンズ ©Nikm, CC0)


 実際、筆者が高校時代にお付き合いしたことのある女性の「お父さん」という方が、この在日アメリカ軍基地で警備員として働いていました。その後、筆者は貨物会社に入り、アメリカ軍基地専用線を担当するようになると、この「お父さん」という方が勤務していた基地に筆者も行くようになると、紺色の制服にギャリソンキャップを被り、胸には警備員で基地内の法執行官を表すバッジに、腰にはコルト社製の11mm口径の自動拳銃を携えていたのです。

 このように、日本各地に散らばっているアメリカ軍基地は大小様々ですが、いずれにしても、アメリカの法律(正確にはアメリカ軍にのみ適用される統一軍事法典)が適用されるのですが、施設などの維持管理についてはアメリカの軍事予算から賄われます。(一部は日本政府の「思いやり予算」が充てられます)

 その施設には、建物だけではなく物資などの輸送を担う鉄道も含まれています。

 第二次世界大戦の終了とともに、敗戦国となった日本に進駐してきた連合国軍は、その占領業務を実施するようになります。当然、それらの業務を遂行するためには多くの人と施設が必要で、人員についてはアメリカ軍とイギリス軍を中心に、最大で46万人もの将兵が上陸してきました。そして、彼らが任務遂行に必要となる施設は、旧日本軍の基地や施設はもちろん、軍需工場など必要とあらばありとあらゆる施設を接収していき、各地に連合国軍の施設が設けられました。

 冒頭、神奈川県は全国で二番目に米軍基地が多いところと紹介しました。

 これは、首都東京に近く、戦前より旧軍の基地が多く存在していたことも関係あります。横須賀海軍施設は旧海軍の基地であり、キャンプ座間は旧陸軍士官学校小田急線に「相武台下駅」がありますが、この「相武台」は旧陸軍士官学校を表していて、今日に至るまで士官学校があった名残を伝えています)が置かれていたため、占領側の米軍にとっては都合のよい場所だったと言えます。また、厚木海軍飛行場も旧海軍の基地が置かれていたことから、終戦後は米陸軍航空軍を中心とした部隊が駐留していきます。

 また、終戦後にアメリカ軍による進駐を象徴する出来事として、連合国軍総司令部最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が日本の地に初めて降り立ったのは厚木基地であることは広く知られています。専用機である「バターン号」に乗って飛来したマッカーサー元帥は、コーンパイプを咥えながら「バターン号」から降りる姿を捉えた写真はご存じの方が多いと思います。

 一方、スタッフとなる多くの将兵は空路ではなく、輸送船などに乗って日本の地にやってきたのです。そして、彼らがやってきたのは横浜でした。横浜は日本が初めて外国に向けて開国した港の一つで、やはり首都東京から近く、鉄道や道路といった交通網が戦争によって傷んでいたとはいえ整備されているという地の利の良さから、横浜を中心に多くの施設が接収されたのでした。

 

《次回へつづく》

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