旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

米軍専用線の返還に寄せて【3】

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《前回からの続き》

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 瑞穂線の分岐駅が、それまでの入江駅から東高島に変更されてから3年後の1958年になると、瑞穂線とその終着駅である瑞穂駅は廃止となってしまいました。恐らくは米軍基地内に駅があるため、日本側の仕様が米軍に認められたとしても、かなりの制約が伴っていたため利用しにくい駅だったためでしょう。貨物の輸送量もそれほど多くなく、半ば米軍専用の線路となっていたため、国鉄の鉄道線として維持する意味が失われていたと考えられます。この廃止に伴って、瑞穂線と瑞穂駅は施設はそのまま残置させて、在日米軍専用線に転換されて東高島駅の構内として扱われるようになります。

 

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旧瑞穂駅、横浜ノースドックの構内には、幾重にも敷かれた線路があり、ちょっとした操車場のようだった。この当時はかつてではないものの、それなりに機能していて、友治になればここに陸揚げされた米軍の物資を発送することになっていたと思われる。しかし、実際にはそのようなことは起こらず、アメリカ合衆国陸軍輸送科が保有するタキ3000と、在日アメリカ軍が専用借用した日本陸運(現NRS)が保有するタキ38000が数多く留置され、ローテーションで燃料輸送に使用されていた。(旧瑞穂駅・横浜ノースドック 1992年3月 筆者撮影)

 

 その後は大きな変化もなく、1987年の国鉄分割民営化では、高島線は本線としてJR東日本に継承され、東高島駅は貨物駅としてJR貨物が継承します。そして、旧瑞穂線である在日米軍瑞穂専用線はそのまま東高島駅構内の専用線として扱われ、ここの保守管理はJR貨物在日米軍から防衛施設庁(当時)を経て委託されるようになりました。

 その分割民営化から7年後、1991年に筆者はここの保守管理を担当する電気区に配属され、やがて瑞穂専用線横須賀線田浦駅構内で分岐する在日米海軍田浦油送施設(吾妻倉庫地区)への専用線保全工事設計と管理を担当せよと命じられました。

 田浦駅専用線は早い段階で貨物輸送そのものがほとんど停止状態で、筆者が担当していた当時も週に何本も運転されてなかったと記憶しています。それでも、専用線上にはタキ38000などが留置されているときもあり、保全検査で訪れたときに見かけることもありました。ですから、ずっと同じ車両が留置されていたのではなかったので、まあ、それなりに動きはあったようです。ただ、検査で線路上を歩いていても、他の構内側線とは違い、明らかにあまり使われていないとわかる状態だったので、いつかは廃止される運命なのだろうと想像していました。

 もう一つの横浜ノース・ドックはというと、保全検査や現地調査で行く機会が多く、何度も足を運んだ記憶があります。構内にはいくつもの転轍機があり、5〜6本の線路が敷かれた専用線構内としては比較的大きめの規模でした。

 こちらは週に1往復程度、東高島駅との間に1往復の列車が設定されていて、米陸軍輸送科が保有するタキ3000や、日本陸運や日本石油輸送といったタンク車の保有会社から借り受けたタキ38000などを連結したDE10が推進運転で基地内にやってきていました。筆者がここに出入りしていた当時は、米軍の軍事活動も平時だったためかそれほど活発ではなく、あまり車両の動きは見られませんでした。

 それでも、この規模の大きい専用線と構内線路を維持していたのは、やはり有事になったときに備えていたからでしょう。構内には、ほとんど使われていないジェット燃料輸送用のタキ3000が連なって多数が留置され、それもいつでも走って輸送任務に戻れるような状態に維持されていたのでした。

 また、線路だけではなく、かつての瑞穂駅を伝える唯一のものといえば、構内にある小さな小屋がありました。この小屋は、かつての瑞穂駅の本屋として使われていたと聞かされましたが、人が一人か二人入るとぎゅうぎゅうになるほど小さなもので、そこには通信線を接続するMDF盤と呼ばれる機器が備え付けられていました。すでに鉄道電話など構内にはなく、ほとんど使われていない状態でしたが、筆者が渡された図表にはしっかりと載っていて、それもまた、維持管理の対象になっていたので、保全工事を設計するときには含めていたと記憶しています。

 筆者がこの横浜ノース・ドックに出入りしていた頃は、ちょうど桜木町駅周辺の再開発が真っ盛りで、後に国内で最も高い超高層ビルとして竣工する横浜ランドマークタワーも建設途中でした。横浜ノース・ドックの構内からみなとみらいの地域は遮ることなく海越しによく見えたので、建設途中でまだ半分しかできていなかった横浜ランドマークタワーを写真に収めたものです。もっとも、この写真を撮影してから7年後に、この超高層の中で働くなど夢にも思っていなかったので、人生とは本当に数奇でわからないものです。

 

《次回へ続く》

 

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