旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 東急大井町線の8090系・晩年の頃【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 最近は国鉄・JRネタを多く取り上げていたため、地元の私鉄の話題はすっかりとご無沙汰しておりました。ついこの間のこと、秋に予定しております校外学習の下見で久しぶりに鉄道を使って移動しました。コロナ禍になってからというもの、鉄道を利用する機会は激減したので、ある意味新鮮でした。

 この異常な状態が一日も早く収束することを願うばかりですが、現実は厳しく当面は続くかと思うと気も滅入ってしまいます。とはいえ、人の移動を制限せざるを得ない状況の中で、鉄道事業者をはじめ多くの公共交通機関の業績は悪化し、コロナ禍が収束したとしても業績はもとには戻らないであろうといわており、今後の動向も気になるところでもあります。

 さて、誰もがこうしたそれまでの日常が失われ、異常ともいえる制限された生活が長く続くと微塵も予想しなかった2000年代、首都圏の鉄道網もまた今日とは異なっていました。それまでは開業以来のネットワークを堅持し、路線ごとに列車を運転することが原則でした。相互に乗り入れるのは都心と近郊を結ぶ路線と、都心部を網の目のように張り巡らされている地下鉄という形態があるだけでした。これには様々な理由がありますが、その1つに乗り入れる路線が多くなればなるほどダイヤを組むのが複雑になってしまうことが挙げられます。

 ダイヤと一言に言っても、その種類は数多くあります。多くの方がまっさきに思い浮かべるのが、列車の運行を現す「運行ダイヤ」でしょう。どの駅に何時何分に発車し、次駅には何時何分に発車するといった具合に、列車番号とともに斜めの線で書き表されたものがそれです。

 しかし、鉄道は「労働集約型産業」ともいわれるように、1つの列車の運転には多くの人が携わります。列車に乗務する運転士や車掌もまた、予め設定されたダイヤに沿って執務します。Aという運転士は1日目には何時何分に出勤し、どの列車に乗務するのか、休憩はどこで取るのかなど、きめ細かく設定されているのです。翌日には、このA運転士は同じダイヤでは仕事をせず、例えば泊まり勤務であったら翌日は明け番として、翌々日までは勤務しないというダイヤが組まれています。

 一方、列車として運転される車両にもダイヤが組まれています。いわゆる「車両運用」と呼ばれるもので、1日目には朝と夕方のラッシュ時間帯だけ運用され、日中は車両基地などで待機し、2日目には朝のラッシュ時間帯から運用に入り、日中もそのまま運用され続け、夕方のラッシュ時間帯が終わる頃に車両基地へ戻る、という具合に組まれています。

 また、列車の運転とは直接関係のない施設や電気関係の職員にも、それぞれダイヤが組まれています。こちらは「作業ダイヤ」呼ばれ、筆者も糧つて鉄道マンだった頃はこの作業ダイヤに従って執務していました。さらに、貨物駅など車両の入換といった運転業務に就く駅の職員は、指定された担務ごとにダイヤが定められていて、執務と休憩、休息の時間がきめ細かく定められているのです。

 ですから、異なる路線、とくに鉄道事業者間での乗り入れとなると、そのダイヤを編成する作業は非常に複雑になってしまうので、2000年代に入るまでは地下鉄乗り入れといった例外を除いて、列車の運転は1つの路線で完結するのが原則でした。

 さて、写真は2004年の二子玉川駅で捉えた、大井町線8090系です。

 二子玉川駅は駅のホームの一部が多摩川に架かる橋梁の上にあるので、とても開けた感覚になります。ホームから川崎方面を望めば、いまや昔の面影などほとんどなくなってしまった武蔵小杉のタワマン群が見られ、その向こうには羽田空港を離発着する旅客機もみることができます。

 逆に山側を望めば、寒く空気が澄んだ日には、遠く奥多摩から秩父山地の山々を望むことができるなど、開放感のあふれる駅でもあります。

 この写真を撮影した頃の大井町線は、二子玉川駅で折返し、上り列車となって大井町へ向かうというもので、筆者が小中学生の頃と変わらない運転形態でした。それ故に、多摩川橋梁の上には折返し用の引き上げ線も設けられ、二子玉川に到着した列車は客扱いをした後、回送となって引き上げ線へと向かうと、ここで乗務員が車内を歩いて乗務位置を変えていました。写真をよく見ると、乗務員室には人の姿がなく、大井町行きの表示をしていながら、後部標識灯(尾灯)を点けていますが、これは引き上げ線上での折返し作業中だからです。

 

f:id:norichika583:20200502234710j:plain目蒲三線とも呼ばれた大井町線目蒲線(現在の目黒線多摩川線)、池上線は、駅などの施設の構造などから、18m級中型車が運用されていた。東横線田園都市線に20m級大型車が増備されてくると、そこを追われた様々な車両たちが集うようになる。写真の7200系も、かつては「本線級」の東横と田都で使われていたが、8000系や8500系に追われて転じてきている。写真のデハ7251は、1960年代末頃に製造され、目蒲線にやって来て3両編成を組んで旧型車である3000系に混ざって活躍していた。後に4両編成に組成されて、最後まで目蒲線を走り続けたが、目蒲線の系統分離によって用途を失い廃車。2000年に豊橋鉄道に譲渡されてモ1807と改められ、「菜の花号」として2021年現在も活躍している。(1987年頃 多摩川園駅(当時。現在の多摩川駅) 筆者撮影)

 

 そういえば、大井町線は目蒲三線とも呼ばれ、東急電鉄の中ではローカル支線級の扱いだと、東急電鉄に勤めている後輩や知人に聞いたことがあります。あまり知られていないことのようですが、東急電鉄が最も投資し力を入れている多摩田園都市構想のもと、開発をすすめる中で建設された田園都市線には、最新の(といっても、標準車両ともいえる8000系の改良版である8500系でしたが)車両を入れ、人材も社内で優秀な人を配置させていたようです。

 次点は東急電鉄のルーツでもあり顔ともいえる東横線で、こちらも田園都市線と同じく車両も最新のもの、人材も優秀な人を配置させていました。

 一方で、目蒲三線といえば、人材はともかくとして、車両の面では東横・田都で使い古された車両が充てられてきました。もっともよく知られているのが、目蒲線と池上線で最後まで運用された吊り掛け車である3000系(初代)でしょう。デハ3450やデハ3500、デハ3650といった緑一色に塗られた旧型車が3両編成で闊歩し、オールステンレス車両と界磁チョッパ制御という、当時の最新技術をふんだんに使った車両を数多く運用する会社と同じ路線とはとても思えないほど、古臭くてローカル色満載でした。

 大井町線も似たようなものでしたが、筆者がこの路線に乗る頃には旧型車である3000系は既になく、かつて幼き頃に東横線で乗ったことのある、特徴的な車体の5000系(初代)や外板をステンレスにした5200系、試作的要素の強い6000系(初代)、さらには東横線などで活躍したものの、8000系の投入で追われてきた7000系など、東急電鉄の車両史をそのまま展示している博物館のような眺めているだけでも楽しい路線でした。

 さすがに沿線に人口も増え、同時に二子玉川で接続する田園都市線の混雑は度を越し、首都圏混雑路線ワースト10にランクインするなど、その改善は急務となりました。それはそうでしょう、自らが開発を進め、高級感と住みやすさを売りにして分譲し、そこに住む人たちに通勤や買い物で自社の鉄道を使ってもらい収益を上げるというビジネスモデルが、肝心な鉄道が混雑ワースト10で新聞すら読めず、常にぎゅうぎゅう詰めを強いられる「痛勤」となれば、顧客となる利用者からも早期の改善を求められるのは当然のことです。

 さすがに東急電鉄もそのままというわけにはいかず、早期に解決しようと模索しました。田園都市線の列車を増発するために従来のATCに代えて新CS-ATCを導入、さらに混雑緩和を目的に6ドアー車も導入しました。しかし根本的な解決には至らず、新CS-ATCを導入して列車の増発はしたものの、既に線路容量も限界に達していて、車両の増結も考えられました。しかし既に全列車が10両編成で運転されていて、これ以上の増結は不可能であり、残る手段は複々線化しかなかったのです。しかし複々線化には膨大な費用と時間がかかります。少子高齢化も叫ばれるようになる中で、膨大なコストを掛けて複々線化するのは現実的ではなく、また渋谷ー二子玉川間は地下区間なので、ここを複々線化するのは不可能でした。

 そこで注目されたのが大井町線で、最も混雑が激しくなる溝の口以東で大井町線に乗客を振り向け、地下区間での混雑緩和を図るというものでした。こうして、二子玉川溝の口間の複々線化と、大井町線の改良が行われ、かつては東横・田都からやってきた中古車両の隠居先であったのが、急行列車も運転されるほど重要な路線へと様変わりしたのでした。

f:id:norichika583:20200503003309j:plain大井町線東急電鉄の中でも「支線級」の扱いだったが、田園都市線の激しい混雑を緩和するための「切り札」として注目を浴びるようになり、線路などの施設の改良、溝の口への延伸と併せて田園都市線複々線化としての役割を担うようになった。その工事の最中の撮影で、停車する8090系の広報には既に拡張された二子新地の構内が見える。8090系大井町線で3M2Tを組んで運用されたが、4M1Tの8500系と比べるとやや力不足の感が拭えなかった。この後、写真の8095Fは2011年9月に廃車になり、中間の2両(デハ8493、デハ8296)を抜いた上で3両編成に組成し、さらにクハ8095は制御電動車に改造されて秩父鉄道に譲渡された。(8095F 二子玉川駅 2004年 筆者撮影)
  

 この写真はその前夜ともいえる時期の撮影で、背後に映る二子新地は既に改良工事が進んでいて、ホームの構造物も建て替えられて、複々線化に向けて高架橋の拡幅も済んでいました。ただ、軌道工事はまだ手がついていないようで、大井町線の引き上げ線の先にはレールが見当たりません。この後車両もすべてVVVFインバータ制御に統一されていきますが、まだ界磁チョッパ制御の車両も多く残っていました。

 8090系はもともと東横線に、8000系の改良型となる日本初の軽量ステンレス車として1980年に登場しました。航空機の設計手法を応用し、車両重量を軽減することに成功し、ステンレス車=コルゲート板という常識から脱し、外板に直接ビートが入るものへと変わりました。

 

 《次回へつづく》

 

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