旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

思い出の上越特急「はくたか」【2】

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《前回のつづきから》

 

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 その「はくたか」ですが、筆者にとって思い出深い列車の一つです。

 まだ小学校に上がった頃か、幼稚園の年長だった頃か定かではありませんが、今は亡き父に連れられて乗ったことがあります。このブログでもお話したことがありますが、あまり裕福な家庭ではなかったので、列車に乗って、それも特急列車に乗って父と一緒に遠くへ出かけたのは、後にも先にもこの一度きりでした。

 朝、それも6時頃だったでしょうか、やたら朝早く起こされ、眠い目をこすりながら自宅がある山から降りてバスに乗り、当時は72系電車が最後の活躍をしている南武線へ乗り換え、上野駅を目指しました。

 上の駅までのことは記憶にはありませんが、やたらと広く、そしてたくさんの列車が停まっている光景は、鉄道を題材にした絵の本の世界とまったく同じで、しかもクリーム色に窓まわりに赤い帯を巻いた485系は、まさしく図鑑などで見た特急列車そのものでした。

 それはもう、幼い筆者は大興奮で、485系に乗ると車内はまるで夢のような世界だったのを思い出します。指定席か自由席だったかはわかりませんが、紺色のモケットを張ったフカフカの座席に、背もたれには白いカバーがかけられ、普通ではない「特別な」列車だった印象は強烈でした。

 もっとも列車が走り出したころは車窓を眺めたり、車内の様子を観察したりしていましたが、やがて乗っている時間が長くなると、そこは幼い子どものこと、だんだんと飽きてきてしまい早く目的地に着かないかと思いもしたものです。

 この当時、1978年頃は上野駅からは多くの優等列車が発着していました。筆者が乗った「はくたか」は、上野駅金沢駅を結ぶ長距離列車で、信越本線ではなく上越線経由で走る列車でした。しかも1往復だけの運転なので、運転本数が多い「L特急」ではなく、国鉄優等列車で伝統のある「特別急行」だったのでした。

 また、車内を探索したのを覚えていますが、途中に食堂車が連結されていて、そこだけは食欲をそそる香りが車内に充満していました。時間が来ればここで食事ができるものだと思っていましたが、さすがにそこで食事をすることはなく、車内販売で購入した駅弁を座席で食べたのでした。

 

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485・489系で運転されていた頃の「はくたか」。東京(上野)から上越国境を越えて日本海沿岸の各都市を結ぶ役を担った列車で、筆者が父に連れられて乗った頃は、このように食堂車も含んだ長大編成を組んで、金沢までの長距離を結んでいた。今となってはこうした列車が当たり前のように走っていたとは、考え難いだろう。(©Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 食堂車が連結されていることから、1978年ではなく1977年だったと推定しています。というのも、1978年から食堂車の連結がなくなり、「白山」と共通運用となった金沢運転所の489系が充てられたので、これがあるということは向日町運転所配置の489系によって運転されていた事がわかります。

 今考えてみると、京都の向日町所配置の電車が上野駅発着の特急列車として運用されていたことにも驚かされます。分割民営化されて別会社になった今日では、こうした広域運用は考えられないことです。国鉄時代も、1970年代終わり頃から、車両の増備が進んだことと列車の統廃合など合理化の推進により、効率の悪いこうした広域運用は解消されましたが、70年代半ば過ぎまでは存在していたのです。

 上越国境を越えるというと、かなり長い坂を登っていく印象があります。実際に、ループを描くようにして敷設された線路や、土合駅のようにトンネルの中にホームが設けられ、地上にある駅本屋まで長い階段を昇り降りしなければならない駅などがあり、鉄道にとって難所の一つともいえます。といっても、幼い筆者にとっては「のんびりと走って、しかも景色は山ばかり」という印象しかなく、特急列車という割にはスピードも出ないつまらないものでした。

 しかし上越国境超えはかつては補助機関車を必要とする鉄道にとっては急峻な道のりで、いくら489系という動力分散式の電車で機関車牽引の客車列車とは違っても、やはりこの難所を越えるには速度制限などもあってスピードは出せなかったのです。

 ようやく上越国境を越えて新潟県内に入ると、長岡駅に停車します。そのまままっすぐ進むとおもいきや、車掌が車内放送で「進行方向を変えます」という案内。進行方向を変えるとはこれまた驚きました。

 もちろん、座席がそのままでは後ろ向きになってしまうので、向きを変えることになります。489系の座席はリクライニングこそはできないものの、回転させて向きを変えることはできます。父が座席を回転させて向きを変えると、車掌が案内したとおりに列車は元北方向に向かって走り始めたのでした。

 これでまた元の駅に戻ってしまうではないか!などと思ったものの、そこから信越本線に入って「はくたか」は進んでいったのです。

 「はくたか」は上越線信越本線の結節点である長岡駅で方向転換、すなわちスイッチバックして運転する列車でした。このような運転形態をとる特急列車は、ほかには信越本線経由の「白山」もありました。首都圏と北陸を結ぶ優等列車は、日本海沿岸に出るとこのようなスイッチバックを強いられていたのです。

 このスイッチバックは旅をする上では変わった形態になるので、趣味的には楽しいものかもしれませんが、列車の運行という実務面では厄介なものです。乗客の乗降をする客扱いをするにしてもしないにしても、必ず停車しなければならず、列車の到達時間は伸び速達性を低くしてしまいます。また、運転士の交代の有無に関わらず、先頭が入れ替わるということは、必ず運転士は運転台を替えなければならず、当時の「はくたか」のように12両編成という長大編成になると、ホームの上を少なくとも240mは歩かなければならないのです。もっとも、上越線を運転してきた運転士がそのまま信越本線を運転することはなかったと考えるのが妥当といえるので、240mも歩く必要はなかったといえるでしょう。

 

《次回へつづく》

 

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