旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 ~湘南・伊豆を走り続ける最後の国鉄特急形~ 185系電車【12】

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 前回のつづきより

  

 

10−3 まだまだある、多彩な運用をこなした185系

 東海道185系もさることながら、東北・高崎・上越各線の185系もまた、多彩な運用に就きました。

 すでに述べたように、「新幹線リレー号」としての役目を終えた185系200番代は、新たに設定された新特急を中心に活躍を始めていきます。

 一方で、「湘南ライナー」と同じく通勤利用者向けの着席保証サービスである「ホームライナー」としての役割も新たに加わりました。こちらは「湘南ライナー」とは少しばかり異なり、本来の運用である特急列車としての送り込みや、所属する新前橋への回送列車を活用するというものでした。

 もちろん、方法は異なるとはいえ、多くの通勤利用者にとって「湘南ライナー」同様に、必ず座席に座ることができ、快適な通勤ができるということで好評を博したのは言うまでもないでしょう。

 また、田町配置の185系と同様に、いちぶの普通列車にも充てられましたが、その中でも特筆するのが信越本線での運用だといえます。

 信越本線は、高崎線上越線の結節点である高崎駅から西に向かい、長野県の長野を経て、日本海側の直江津を経て新潟に至る路線です。中でも国鉄(→JR)の路線で最も急勾配であった碓氷峠を擁していて、ここを通過する列車には、普通列車でも特急列車でも、そして貨物列車でも、すべてEF63が補機としてエスコートをするのが日常でした。また、EF63との協調運転が可能な489系や189系も含めて、碓氷峠超えをする列車に充てられる車両は、通称「横軽対策」と呼ばれる特殊仕様をもつものでなければなりませんでした。

 

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185系200番代 OM09編成 2019.8.16 東京駅(筆者撮影)

 

 この「横軽対策」とは、台枠と連結器を通常よりも強化させ、連結器の緩衝器の容量を増やすことで、下り勾配を走行中に急制動がかかったときに、座屈による異常荷重による台枠の歪みや破損を防ぐようにしなければなりません。また、台車の横揺れを抑える横揺れ制限装置や、空気ばね台車については空気ばねをパンクさせることができる構造とし、台車と車体が分離しないようにもしなければならず、加えて車掌弁(車掌が異常発生時に操作することができる急制動装置)も、通常の車両と比べてより強力な構造とされたのでした。

 200番代は製造当初からこの「横軽対策」を装備していたため、信越本線の横川−軽井沢間を走行することができました。ただし、補機となるEF63と協調運転ができる装備を持たなかったため、この区間に乗り入れるための厳格な規定である8両編成以下に抑える必要があり、200番代はグリーン車を入れるても7両編成に抑えられました。

 このように、200番代は横軽対策が施された仕様だったので、碓氷峠を越えて軽井沢方面への運用にも充てられました。

 特に間合いでの普通列車へ充てられる運用は、0番代と同じく200番代でもあったようで、国鉄時代は高崎線普通列車にも200番代が入った記録があります。また、民営化後には信越本線普通列車、特に上越新幹線と接続して軽井沢方面へ向かう「軽井沢リレー号」として200番代が充てられ、碓氷峠越えのためにEF63の力を借りて碓氷峠を登り降りしていました。

 また、横軽対策であることを活かして、季節特急「そよかぜ」にも充てられました。「そよかぜ」は、1968年から設定された季節列車で、特に夏季に避暑地である軽井沢へ向かう利用者を乗せて、上野−中軽井沢感を結んでいました。当初は181系や183系、489系などが充てられましたが、後に幕張配置の183系0番代や田町配置の183系1000番代も充てられるなど、盛況を呈した列車でした。そして、新前橋配置の185系200番代も「そよかぜ」に充てられました。

 この「そよかぜ」としての運転で、特筆すべき列車は1990年8月に運転されたもので、当時の皇太子夫妻(現在の上皇陛下)がグリーン車に乗車される「お召し列車」となったものの、普通車には一般の利用者も乗車することができるという、前例のない列車となったのでした。通常、皇族が列車に乗車されるときは、「お召し列車」として運転されるのは多くの方がご存知だと思います。「お召し列車」は、当時、専用の「御料車新一号編成」か、貴賓車であるクロ157を連結した183系、後に185系が充てられます。当然、警備の関係から一般の利用者が「お召し列車」に乗車することはできません。しかし、1990年8月に運転された列車は、「そよかぜ」としてお召し列車でありながら一般の季節特急として設定され、グリーン車以外は避暑地に向かう人々も乗っていたのでした。

 これは、民営化後になっての運転だったことと、可能な限り国民に迷惑をかけたくないという陛下の御意向もあったと考えられ、後にも先にも同じ列車に一般に営業される列車がお召し列車となったのは、この時だけだといわれています。

 新前橋配置の200番代はそれだけにとどまらず、日本海縦貫線にも進出していきます。

 1993年から日本海側の海岸への海水浴客輸送のために設定された臨時快速「青海川」は、新前橋の200番代が充てられました。上越線を経由して信越本線へと乗り入れますが、日本海の沿岸を走った185系は後にも先にも、この「青海川」だけでした。しかし、「新幹線リレー号」が廃止された後の200番代は、一部が余剰となっていたこともあり、波動輸送用に使用されていたので、このような列車の設定も可能だったと言えるでしょう。

 

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©Tokyodesert, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズより引用

 

 1990年代には、冬季にはスキー客輸送用の列車として「シュプール号」が運転されました。この頃は、冬のレジャーとしてスキーを楽しむ人が多く、定期列車だけでは捌ききれなかったことと、民営化によってJR各社は増収のために様々なアイディア商品とも言える列車を多数運転するようになったために実現したのでした。この類の列車はJR東日本だけではなく、JR西日本でも運転されていましたが。

 これらの列車にも、新前橋の200番代が充てられます。もともと200番代は、東海道本線で運用されることを前提とした0番代所なり、北関東から信越方面への列車として運用することが多いと想定されていたため、登場時より耐寒・耐雪仕様が盛り込まれていたので、このような列車はうってつけだったといえるでしょう。

 いずれにしても、200番代を製造するにあたって、その目的は「新幹線リレー号」用であることが災いし、会計検査院からは「新幹線の上野開業後は余剰になる」と指摘され、当時の国鉄は「上野開業後は、近距離特急列車に転用する」と主張し、紆余曲折を経て製造の承認をおろしたといいます。

 実際、東北・上越新幹線が上野まで延伸されると、「新幹線リレー号」はその役目を終えて廃止になり、東北・上越方面の近距離特急列車に充てられましたが、会計検査院が指摘したように少なからず余剰車も発生しています。一部を東海道本線に転用しましたが、それでもすべてを活用できたとはいい難く、余剰となった車両は波動輸送用として用いられました。ただ、団体輸送のようなスポット的な用途というより、夏季の避暑客や冬季のスキー客のようにある程度需要が見込める季節列車がとしての運用が多かったのも特徴であるといえます。

 

 

《次回へつづく》

 

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