旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

過酷な通勤輸送を支え続け40年の功労車・東急8500系【3】

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《かなり間が開いてしまいましたが・・・前回からのつづき》

 

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 1975年から田園都市線新玉川線用として、8000系を基本に営団との協定に基づいて半蔵門線直通仕様に改めて製作されたのが8500系でした。

 基本的な構造は8000系から大きく変わることはなく、20m級4ドアの通勤形で、構体を含めて全てステンレス鋼を使用したオールステンレス車でした。側面も当時のステンレス車ではごく普通であるコルゲート板が貼り付けられ、側面から見ると8000系と識別するためには車番を見なければわからないほど同じでした。

 主制御器をはじめとした電装品も8000系とほぼ共通でした。

 制御方式は界磁チョッパ制御、主電動機は直流複巻整流子電動機を使用して、電力回生ブレーキを使うことができるなど、省エネ性を十分にもたせたものでした。もっとも、界磁チョッパ制御は電機子チョッパ制御とは異なり複巻電動機を使用しなければならず、この電動機は直巻電動機と比べると構造が複雑で、検査も煩雑になるというデメリットがありましたが、それでも電力回生ブレーキが使用できることで、消費電力が軽減でき、ひいては運用コストを減らし、省エネルギー性を十分に確保できるメリットがあったことから、あえてこの方式を採用したのでした。

 一方で、8000系の先頭車は制御車であるクハ8000が編成の両端に連結されているのに対し、8500系の先頭車は制御電動車であるデハ8500、デハ8600となりました。これは、既にお話したように編成における電動車比率を高めるための方策で、登場時の4両編成では3M1T、増備車は4Mを組んでいます。先頭車が制御車となるクハではこうした高い電動車比率を確保することが難しくなるため、経済性には劣るもののやむを得ず制御電動車とされたと考えられます。

 

東横線多摩川園駅(現在の多摩川駅)を発車し、武蔵野台地を末端部の切り通の急カーブを通過する8500系8607F。行先表示の「桜木町」も懐かしいが、この狭隘なカーブも今では複々線になって軌道敷が広げられた。8500系田園都市線の「主」という印象が強いが、かつてはこの写真のように東横線にも配置されていた。8000系とほぼ共通の設計であり、搭載機器も同じだったため、運用上は特に分けられていなかったため、各停・急行の区別もなくこうした姿が見られたものの、8000系に7両編成があったため、運転士側前面窓には編成数を注意喚起するステッカーが貼られていた。後に田園都市線(と新玉川線)の輸送力増強をするために8500系を転属させる必要から、その代替の意味もあって8090系が増備されると、徐々に東横線から姿を消していった。(8500系・8607F8両編成 1984年頃 東横線多摩川園駅 筆者撮影

 

 先頭車の前面形状は8000系と比べると、前面窓の面積が天地方向に狭められました。このため、運転台の高さ位置も8000系と比べて8500系は高くなる高運転台構造とし、運転席が座る椅子もそれに合わせて高めの位置に設置されました。

 新玉川線と乗り入れ先の半蔵門線はすべて地下線であるため、運輸省が定めた地下鉄専用のA-A規準で設計されました。地下鉄線内で万一車両火災などが起きた時には、速やかに乗客を避難させることができるようにするため、先頭車はすべて貫通扉付にしなければなりません。この貫通扉を使って乗客が車内から避難できるようにするために必須となるこの構造は、8000系も同じく貫通扉付だったので特に大きな変更点ではありませんでした。

 一方で、乗客案内を明確にできるようにするため、8000系では行先表示幕に列車種別を併記する方法を採ることで、貫通扉上に1個だけ装着されていました。しかし、8500系では貫通扉真上には行先を表示する幕窓を、さらに運転席窓と車掌側窓の上には、それぞれ列車種別と運行番号を表示する幕も用意されました。

 また、使用する部材は難燃であること、特に電気配線は被覆劣化などによる絶縁不良と、それが原因で起こりうる漏電による火災事故を防止するため、すべてが配管内に収められていることなど、細かくそして厳しい規準が設けられていました。

 運転台機器も8000系とは異なり、ユニット式のものが採用され、CS-ATCに対応した車内信号機付の速度計を中央に、その両脇には圧力計や電流計、そして車両状態を知らせる表示等が配置されました。この運転台デザインは、後に登場する営団8000系と揃えられたものとされ、営団の運転士が8500系に乗務しても難なく運転操作ができるようにされていたのです。

 保安装置には半蔵門線がCS-ATCを採用したことから、8500系にもATC車上子を設置しなければなりませんでした。しかし、この当時のATC車上子とその機器は今日のものと比べると大型であるため、これを設置する場所をつくらなければなりません。そこで、外観からはわかりにくいのですが、乗務員室と客室の仕切りを客室側にずらし、そのできたスペースの運転士席側にATC機器を設置しました。この方法は国鉄でも採用されていて、山手線と京浜東北根岸線、さらには営団千代田線と直通運転をしていた常磐緩行線で運用されていた国鉄103系も、同様に運転室仕切りを客室側に移動させて設置していました。

 そのため、先頭車の客室面積はATC車上機器を収納するスペースの分、すなわち上ウイン室直後の戸袋窓1個分が狭くなったため、乗車定員も8000系の先頭者であるクハ8000と比べると若干少なくなっていました。

 

東横線に配置された8500系の中で、最も最後に製造され、そして最後まで残った8642Fは、1990年代に入るまで元住吉配置だった。8642Fは8500系の中で最後に増備された車両なので、初期に製造された車両とは車体構造の設計に変更が加えられたため、車体断面、特に幕板部から屋根にかけてのカーブが丸みを帯びている。また、冷房装置も最終増備車は9,000kcal/hのものが搭載され、冷房能力も在来車より強化された。加えて扇風機ではなくスイープファンを備えた平天井になるなど、大きく変化している。このおかげで、夏季の冷房は8000系よりも冷え、ともすると体の芯まで冷えてしまった。(8500系・8642F10両編成 たまプラーザ駅 2004年7月1日 筆者撮影)

 

 実際、筆者も高校時代に8500系の先頭車に乗る機会は何度があり・・・というよりは、登校するときに乗り遅れそうになってほとんど駆け込むように乗ったものですが、乗務員室直後のドアから車内に入ると、仕切りがドア付近にある分、どこか狭く感じたものでした。

 また、8500系は登場時より冷房装置を装備していました。一部は冷房装置を搭載しないで落成していましたが、8000系と比べると冷房化率は高かったので、来た列車に乗れば大抵は涼しく快適な車内でした。東横線の8000系が落成時は非冷房、後年の増備車は冷房装置のキセだけ乗せた準備工事車(いわゆる「空ラー車」)であったことと比べると、当時としては破格のサービス水準で、東急がいかに田園都市線を優先させていたかが分かる事例の一つといえるでしょう。

 

《次回へつづく》

 

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