《前回のつづきから》
このブログでもお話しましたが、筆者は鉄道職員として貨物会社に採用されると、すぐに九州支社勤務を命じられて赴任しました。月に2回は会社から帰郷が許され、旅費も支給されたので、この時とばかりに門司と東京をなんども往復したものです。
ある週は福岡空港から飛行機で、ある週は寝台特急列車で、ある週は新幹線でと、支給された旅費で乗れる列車は片っ端から乗ったものです。
最も効率的だったのは、やはり寝台特急でした。夕方、勤務が終わると勤務する区所から一度寮に戻り、荷物を持って門司駅に出向いて列車に乗り、一晩寝れば翌朝には東京に着いたのです。ですから、土曜日は丸一日、実家や園周辺で過ごすことができたのはとてもよかったものでした。
しかし、翌日曜日には門司に戻らなければなりません。往路を鉄道で、復路を航空機でということはできなかったので、往路を鉄道で移動したら、復路も鉄道を使わなければなりませんでした。夕方に寝台特急に乗って、月曜日の朝に門司に到着することはできますが、これでは勤務に間に合わないのでした。
一番早く東京を発車する「さくら」は、16時30分に東京を出ますが、門司の到着は翌朝7時52分です。この時刻で勤務に間に合うのは門司機関区ぐらいで、あとはぜんぜん間に合いません。福岡貨物ターミナル駅や小倉車両所だと完全に「遅刻」でした。
ならばということで、門司へ戻るときは新幹線を使うことがほとんどでした。
東京または新横浜から「ひかり」に乗りましたが、この当時の東海道・山陽新幹線の最高運転速度は220km/hに引き上げられていたため、最速の「ひかり」では東京−博多間は5時間57分と、6時間を3分だけですが切ることができていました。16時頃の「ひかり」に乗ると小倉には21時30分過ぎに、17時頃では22時30分過ぎに小倉に着くことができるので、門司の寮には22時から23時には帰ることができました。
この時間帯に乗るのですから、夕食は当然、車内で食べることになります。寮についてからでは食堂も閉まっていて、コンビニで弁当を買うことになりますが、この当時の筆者にはどういうわけかコンビニ弁当を買うという思考がなかったので、駅弁を駅や車内で買って食べるか、食堂車で食事を摂るかの二択だったのです。
かつて、食堂車の通路に掲げられていたメニュー。車内で調理することや、積み込むことができる食材の関係から、メニューは限られていたが、走行する車内でレストラン並みの食事ができるという「非日常」が味わえる食堂車は、長旅をよりよいものへと演出するために欠かせない存在だったと思う。(168−9001食堂車 リニア・鉄道館収蔵 2022年8月3日 筆者撮影)
もちろん、財布に余裕がある時には食堂車で夕食を摂りました。少年時代に「憧れた」あの36形にも出向いて、少しだけ「優雅な時間」を過ごすことができたのです。もっとも、遅い時間帯の列車だったので、雄大な富士山を眺めながら、あるいは流れ行く沿線の景色を見ながら食事をすることは叶いませんでしたが、それでも、夜の帳が訪れ、人々が暮らす街の明かりが流れ行く中での食事は格別だったのです。
何を食べたのかと思われますが、残念ながら何度も利用したので、メニューがなんだったのかは思い出せません。筆者はビーフシチューを好んで食べていたので、新幹線の食堂車の中でもきっと、それを注文して味わっていたと思います。
もっとも鉄道職員になったので、できればまかない食の「ハチクマライス」を食べたかったのですが、何しろ乗務員ではないし、会社も違う貨物会社の人間で、しかもメニューにないのですから注文のしようがありませんでした。
その食堂車も、既にこの頃には衰退の一途をたどり始めていました。同時に0系自体も陳腐化・老朽化が進んでいました。国鉄時代に20年以上にわたって増備と置き換えが続けられ、末期の1985年にようやく後継となる100系が登場。分割民営化後に東海道・山陽新幹線を継承したJR東海とJR西日本は、0系の代替えとして100系を増備していました。ですから、徐々に0系はその数を減らしていき、速達列車の「ひかり」は100系が主役になっていたのです。
また、JR東海はさらなるスピードアップを目指して、300系の開発を始めていました。これが実用化すると、100系の増備も終わりになり、食堂車の存在自体が怪しくなっていくのは自明の理だったのです。
この後、新幹線の食堂車を廃止する際に、JR東海の社長、会長を務めた葛西敬之氏は、食堂車の現状を「食堂車が自由席の代わりに使われている。東京−新大阪間で、客の回転は2回転、よくて3回転だった」と語っています。
実際、食堂車は「いつも混んでいる」という印象でした。席が空くのを待つ人たちが、通路に列をなして並んでいるので、一見すると「盛況」のように見えました。しかし、その実態は自由席の座席を確保できなった乗客が、食堂車をその代わりとして使っていたことで、常に「満席」の状態に陥り、本来であれば客の回転率を上げることで収益を得る飲食業のビジネスモデルが、新幹線の車内では実現できなかったといえるのです。
このような状況では、食堂車の事業としての旨味がないばかりか、ビジネスとしては成り立たなくなります。1990年には都ホテルが食堂車の営業から撤退、次いで1992年には帝国ホテルも撤退していきました。新幹線の運営が民間企業に移行したことで、国鉄という国の企業体からの要請という呪縛から解き放たれたことにより、ビジネスとして成り立たないと判断した二つの老舗ホテルが手を引くのも当然の成り行きだったといえます。
この後、国鉄が出資して設立した日本食堂から分離したJあるジェイダイナー東海とにっしょく西日本が食堂車の営業を担いました。この二つの会社はJR東海とJR西日本の関連企業であるため、新幹線の食堂車から手を引くことは憚られたのでしょう。
とはいえ、いつまでもこの状態が続くはずもなく、食堂車の設定がない300系の増備と0系の廃車置き換え、「のぞみ」の増発と「ひかり」の削減などによって食堂車を連結する列車も減っていきました。
長らく、東海道・山陽新幹線は0系電車のみで運行されていたが、国鉄は新時代の新幹線車両として100系を開発・製造した。0系電車は運用する国鉄の事情に合わせた車両であったのに対し、100系は「お客様第一、乗務員は二の次」という考えのもとで設計された。その答えの一つが「2階建て車両」の設定と、食堂車のキャパシティを大幅に増やしたことだった。0系36形では、ラウンジは海側2人席、山側4人席であったのに対し、100系168形では通路を挟んで4人席を設定するなど、収容人数も多くなった。また、ラウンジを2階席にすることで眺望もよくなり、更に明るく眺めを良くしようと局面大型ガラス窓を採用し、0系36形よりも明るい車内になった。(168−9001 リニア・鉄道館収蔵 2022年8月3日 筆者撮影)
加えて、利用者の購買行動も変化していったことも、食堂車の存在意義を失わせることに繋がりました。かつては車内で飲食をする場合は、車内販売で購入するか、ビュッフェや食堂車で食事するかでした。しかし、コンビニセンスストアの普及と駅ナカビジネスに着目したJRの思惑とともに、駅売店のコンビニ化や大型駅弁売店の展開など、車内で買わなくとも事前に購入しておけば、席を立って揺れる車内を食堂車に向かうひつようもなく、ゆったりと座席で食事ができるようになったのです。
こうして、食堂車の経営環境は年を追うごとに悪化していき、さらには東京−博多間の到達時間が短くなったことや、航空券の価格が下がり1000kmを超える長距離の移動は航空機が多く使われるようになりました。また、利用客の回転率の悪さも手伝って、1995年に0系の食堂車が営業を終了し、その5年後には100系の食堂車も営業を終了させたことで、20年以上に渡って新幹線の利用者のお腹を満たした食堂車の歴史に幕が降ろされました。
リニア・鉄道館に収蔵されている100系168形。山側から捉えたもので、2階席は曲面ガラスを採用した大型の窓になっている。一方、食堂車を利用あるいは通過する乗客は1階に降りていく必要があり、両側には階段が備えられていた。そのため、窓も非常に小さい明り取り程度のものであった。バリアフリーが義務付けられ一般化した現代では考えられない設備だが、昭和の時代だからこそできた設計とも言える。(168−9001 リニア・鉄道館収蔵 2022年8月3日 筆者撮影)
時代の移り変わりとともに、社会の変化、利用者の変化、そして何よりも1987年の分割民営化を境に、東海道・山陽新幹線は大きく変化していきました。車両の老朽化と新会社による経営方針は食堂車を設定しない車両を製作することに繋がり、食堂車はそうした様々な環境や情勢に合わなくなり時代に取り残されてしまいました。
しかし、東海道・山陽新幹線が6時間30分をかけて東京−博多間1069.1kmを結んだ時代、間違いなく食堂車はこの長距離を旅行する人たちにとっては欠かすことのできない存在であり、同時に鉄道で旅をする醍醐味を提供したといっていいでしょう。
現在、食堂車を連結し営業する定期列車は、日本ではすべてなくなりました。しかし、流れ行く車窓を眺めながら美味しい料理をいただくという「ノスタルジー」を求める人は多くあり、ご当地の食材をふんだんに使った観光列車が各地で運転されています。また、本格的な厨房とラウンジを備えたクルーズトレインも運転されているなど、食堂車の血脈は今も受け継がれているのです。
筆者も幼少の頃に憧れ、社会に出てその機会を得ることができ、食堂車で食事をしたときには、まさしく「非日常」を感じ、様々な煩わしいことを忘れて食事をしたことは、社用とはいえ、優雅な時間がそこにはありました。それとともに、鉄道で旅ができることの喜びや、航空機にはない「あの魅力」を前面に押し出していたのは、まさに、食堂車のような格別な車両があったからに他ならないでしょう。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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