旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨物駅の名称 東○○、浜○○の「東」「浜」とは何?【2】

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《前回のつづきから》

 

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■海沿いは貨物駅にとって大きな稼ぎ場所「浜」と「港」

 都市部の主要駅近くに置かれる貨物駅は、多くが本線上に貨物列車の「途中停車駅」としての機能を持たせるためといえます。こうした貨物駅は、製品や原材料の出荷というよりは、宅配便などの混載貨物の到着・発送や、製品などの到着が多くを占めています。

 他方、製品や原材料といった貨物の受発送は、工場などに隣接した貨物駅がその役割を担います。それら工場の多くは、海外から輸入した原材料を受け入れやすい港湾部に置かれています。また、海外などから到着した原材料などは、その多くが船舶によって運ばれてくるため、港湾部に隣接した場所にも貨物駅が設置される事が多くありました。

 そのため、港湾部には今も昔も多くの貨物駅が設置されています。そして、その多くは「○○港駅」とか「浜○○駅」といった名称が付けられる例が多く見られます。

 「○○港駅」は、その名の通り港湾部の中に置かれた駅です。言い換えれば、旅客の主要駅や旅客線に対して、工場や原材料などを陸揚げする埠頭に近い、港湾部に貨物駅を設置したことから、こうした駅名をつけられることがあります。

 2022年現在、この「港」を駅名にもつ貨物駅で、定期列車の設定があるところは仙石線石巻港駅羽越本線酒田港駅だけになりました。つい最近までは、奥羽本線秋田港駅北陸本線敦賀港駅などがありましたが、残念ながら前者は接続する秋田臨海鉄道の事業廃止により定期貨物列車の設定がなくなり、後者は敦賀港駅につながる貨物支線じたいが2010年に休止となっていた状態で、自動車代行駅として存続していたものの、支線の正式廃止にともなって駅自体も廃駅になったのでした。

 現在も稼働している石巻港駅は、コンテナ貨物を取り扱う駅です。主に日本製紙石巻工場への専用線を通じて、貨物列車の発着が続いています。1日8往復もの高速貨物列車が設定されていますが、発着駅は仙台貨物ターミナル駅小牛田駅と短距離を運行する列車だけになります。貨物自体はこれら2駅で他の列車に継走させることで、新座貨物ターミナル駅など首都圏へ運ばれているのです。

秋田港駅の全景。貨物駅は広大な敷地が必要になるのがわかる。

 

 残念ながら2021年に秋田臨海鉄道が鉄道事業を廃止したことで、秋田港駅には定期貨物列車の設定がなくなり、事実上貨物取扱が休止状態になりました。貨物取扱量は1972年の67万トンをピークに減少を続け、国鉄分割民営化の1987年には14万トンにまで落ち込みました。しかし、JR貨物秋田臨海鉄道の努力の成果で2002年には44万トンまで回復させたものの、その後の景気低迷と需要低下は著しく、2019年には7.5万トンと、1987年の取扱量の50%にまで落ち込みました。そのため、これ以上は需要の開拓は望めないとして、鉄道事業を廃止することになったのでした。

 しかし、定期貨物列車の設定はなくなったものの、秋田港駅はそのまま存続しています。最近では、すでに廃車になった24系客車などが留置されていましたが、これらの解体作業が秋田港駅の構内で始められ、いわば「鉄道車両の墓場」としての役割を担っているといえます。また、変わったところでは、本来は貨物駅であるこの駅の構内に旅客列車用のホームと小さな待合室が設置され、旅客列車の運行が計画されています。これは、秋田港に寄港したクルーズ船の旅客輸送を行おうとJR東日本が設置したもので、秋田港駅JR東日本の臨時駅として設定されます。いわば、国際航路華やかしき頃、客船の乗船客を乗せて運行された「ボートトレイン」の再来ともいえます。土崎から秋田港までの路線(奥羽本線貨物支線)は、JR貨物にとって数少ない第一種鉄道事業許可を得ている「自社の貨物線」なので、この「ボートトレイン」ならぬ「クルーズトレイン」を運行するのはJR東日本なので、貨物支線の第二種鉄道事業許可を取得することになっています。

 鉄道貨物輸送が盛んな頃は、全国各地の港に貨物線が敷かれ、多くの駅が設置されていました。しかし、モータリゼーションの進展によって、鉄道貨物は衰退の一途をたどり続けて、これら港湾部に設置された貨物駅も多くが姿を消してしまいました。

 「ボートトレイン」の話が出てきたので、前項でお話した東横浜駅の隣接駅である横浜港駅に触れておきましょう。

 横浜港駅は、名称を「よこはまみなとえき」と読みます。「港」を「こう」と読まず「みなと」と読むのは、比較的歴史の古い駅にみられます。

 横浜港駅は、すでにお話した東横浜駅と同じ東海道本線貨物支線、通称横浜臨港線に所属する駅で、東横浜駅の次に位置していました。その場所は、現在のワールドポーターズがある新港町で、この地にはかつて新港埠頭と呼ばれる埠頭が建設されました。

 この新港埠頭を中心に、この地域には次々に荷役設備や保税倉庫などが建設され、一般に立ち入りができないエリアとなりました。そして、海外から運ばれてくる貨物の陸揚げをしたり、逆に輸出する貨物を船に載せるなど、貿易港として重要な役割を担う場所でした。この新港埠頭の建設に際しては、埠頭内に鉄道線路の敷設工事も行われました。

 そして、これら輸出入の貨物を鉄道で輸送をするため、横浜駅(初代)から新港埠頭へ乗り入れる貨物線も敷設され、1911年に横浜港荷扱所として開設されました。この時点では貨物駅としてではなく、横浜駅の構内扱いである荷扱所という位置づけでしたが、後に横浜駅が移転すると東横浜駅の延長上にある施設となり、1920年に横浜港駅として正式な貨物駅に昇格しました。

 横浜港駅は新港埠頭に到着する貨物を主に扱っていましたが、埠頭には貨物線だけではなく船客を乗せた客船や貨客船もやってきていました。特に横浜港は船の玄関口としての役割も大きく、国際航路の客船運航日に東京から客船に乗船する船客を輸送する客車列車「ボートトレイン」が運行されたのです。

 

横浜港駅を発射していくボートトレイン。その名の通り、海外航路に就航する客船の発着日に合わせて運行され、その乗客も客船の利用客に限られていたという。ボートトレインは東京−横浜港間だけでなく、上野−新潟港といった長距離の列車の設定もあった。

 

 横浜港駅にはボートトレインが発着するプラットホームが設置され、待合室や食堂、荷物検査所などを備えた専用のてたものも建設され、まさに国際港としての体裁を整えたのでした。

 戦時中は「ボートトレイン」の運行は中止されますが、戦後に戦渦を生き残った貨客船「氷川丸」がシアトル航路に就航すると、再び「ボートトレイン」は運行されるようになり、「氷川丸」がシアトル航路での運行を終えるとともに、「ボートトレイン」の運行も終了しました。

 その後、貨物駅として輸出入貨物を中心に輸送を続けますが、東横浜駅と同様に貨物用がトラックへ移行して取扱量が減少し、コンテナ貨物へ移行し始めると新港埠頭の陸揚げ料も減少していきました。そして、1979年に横浜羽沢駅が開業すると、高島線や横浜臨港線などに点在していた横浜市内の貨物駅の機能を移管・集約したことで、横浜港駅はその役割を終えて信号場に降格していきました。そして、最後まで残った山下埠頭駅の貨物輸送も終了すると、1986年に臨港線の廃止とともに横浜港信号場も廃止になりました。

 筆者は廃止後、まだ基盤整備が行われていない1991年頃に、貨物会社の職員としてこの横浜港駅の跡地を訪れたことがあります。広い土地に幾重にも敷かれた線路は、まさにこの場所が多くの貨物輸送で日本の経済を支えていたことを感じさせるところでした。ただ、すでに列車の発着などはなく、傷んだ併用軌道のアスファルトがこの地の運命を物語っており、使われなくなった多くの倉庫もまた、かつての姿を伝えていましたが、それが姿を消すのも時間の問題でした。

 

横浜港駅の1967年の航空写真。写真左端に東横浜駅の貨物上屋が見え、海側で分岐して運河を渡っているのが臨港線。そして、新港埠頭に向かってカーブを描いているのがわかる。横浜港駅は埠頭の岸壁近くまで線路があり、貨物線から陸揚げされた貨物を列車に載せやすいように配置していた。また、カーブの右側に見える比較的大きな建物は、有名な「赤レンガ倉庫」で保税倉庫として使われていた。後に、このノスタルジックな建物は有名になり、刑事ドラマ「あぶない刑事」のエンディングにもでてくるほど、撮影でも使われていた。

1988年の横浜港駅跡。東横浜駅は既にその姿がなくなっていて、横浜港駅に通じる臨港線の線路も撤去されるかアスファルトで埋められるかしている。ただし、埠頭に通じる道路は線路があった時代と同じように残されており、陸揚げされた貨物はトラックなどで輸送されていた。しかし、船舶貨物もコンテナ化が進んでいき、その荷役設備をもたない新港埠頭も、この後その役目を終えて海上保安庁の基地が残されるだけになった。

2019年の横浜港駅跡。倉庫や広い道路などの港湾設備は姿を消し、商業施設などが建設されて光景も一変している。かつて海外からの貨物を積み卸ししていた埠頭岸壁は、船舶の接岸機能は残されているものの、船が係留されている姿はほとんどない。この場所は海上保安庁第三管区海上保安本部横浜海上防災基地となって、横浜海上保安部のほか巡視船艇の基地になっている。

 

 後年、職を変えた筆者が横浜ランドマークタワーで仕事をするようになると、かつての新港埠頭と横浜港駅の姿はなく、再開発が進められて大きく変化していました。ワールドポーターズのようなショッピングモールができ、新港埠頭の保税倉庫として使われていた赤レンガ倉庫も整備補強されて、多目的イベント会場とショッピングモールへと変わり、緑地化されたことで一つのテーマパークのようになった中に、「ボートトレイン」が発着していたプラットホームの一部を保存再現されたことは、この地に貨物駅があったことを伝えるものです。

 ところで「ボートトレイン」は、横浜港駅の他にも国際航路の客船が就航している港に運行されていました。ロシアのウラジオストクとを結んだ敦賀港駅、朝鮮半島の羅津航路があった新潟港駅、他には神戸港駅、長崎港駅があり、長崎港駅を除いて東京または上野から列車が運行されていました。興味深いのは、長崎港駅を除いてすべて貨物輸送と縁があり、「ボートトレイン」の運行終了後は貨物駅として機能していたことです。やはり、港湾部に設置されただけあって、貨物輸送が主体だったこと、横浜港駅は再開発などの影響もあり1987年の国鉄分割民営化までには廃止されてしまいましたが、敦賀港駅と神戸港駅はJR貨物に継承されて、後年も貨物輸送を続けていた点が興味深いといえます。

 

《次回へつづく》

 

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