《前回のつづきから》
豪華な設備を誇る特急用客車として20系が増備され、夜行特急列車は順次これに置き換えられていく一方、急行列車や普通列車は相変わらずスハ43系を中心とした車両によって運転されていました。国鉄が開発した本格的な軽量客車である10系は、その近代的なスタイルと軽量構造であることから、次世代の標準的な客車として期待されましたが、極端な軽量化が災いして老朽化が早く進んでしまい、加えて設計上の見積もりの甘さから激しい動揺と保温性の低さに利用者から酷評されてしまいました。老朽化が激しいこともあって、早々に優等列車の運用からは外されてしまい、ついにはスハ43系といった旧式の重量客車にその座を返上する始末で、汎用的な客車の主役とはならなかったのでした。
こうした一般形客車の変遷から、オハ35系やスハ43系といった旧型客車が長らく普通列車に使われていたのです。
しかし、いくら頑強な構造をもった車両とはいえ、製造から40年近くも経つ車両もあり、老朽化はそれなりに進行していました。また、接客設備の面でも陳腐化は免れず、狭いデッキはラッシュ時の乗客の乗降に支障をきたし、列車の遅延にも繋がっていました。また、幅700mmの手動扉は乗客の乗降に時間がかかるだけでなく、安全面でも問題でした。こうした多くの課題を解決するため、旧型客車を運用する鉄道管理局からは新たな普通列車用の客車が求められたのです。
一方で、国鉄は新たな客車の開発・製造には消極的でした。動力近代化計画を進めるにあたって、客車列車で運転されていた普通列車は電車や気動車に置き換えることにしていたからでした。しかし、電車や気動車の増備はこれら旧型客車で運転されている列車のすべてを置き換えるまでには時間と費用が必要で、一日も早い問題の解決を望む現場の声も無視することはできなくなっていました。こうした事情から、国鉄もようやく重い腰を上げて、新たな一般形客車を計画したのでした。
スハ43系など在来の客車は、その構造上どうしても重量が嵩んでしまい、軌道への負担は大きかった。また重量が多いほど、これを牽く機関車に求める性能は大きくなり、牽引定数の割には連結できる両数が少なくなることもしばしばあった。そこで、航空機では当たり前になりつつあったモノコック構造として大幅な軽量化を実現できたのが、10系軽量客車だった。しかし、極端な外板の薄さや、新開発の軽量台車であるTR50のばね定数の設定不良などが祟り、旧型客車を置き換えるには至らなかった。そのため、製造が新しい10系客車の代替としてスハ43系など、重量の嵩む旧型客車が置き換えるという「逆現象」を起こすことになっていった。(ナハフ11 1(最終配置:福フチ] 碓氷峠鉄道文化むら 2011年7月18日 筆者撮影)
新たな一般形客車として開発された50系は、1977年に登場しました。国鉄分割民営化まであと10年という、いわば国鉄の「末期」ともいえる時期でしたが、この頃に国鉄が消滅することなど誰もが予想し得なかったことといえるでしょう。しかしながら、すでに国鉄の財政事情は火の車ともいえる状態で、新たな車両の開発にかける予算を捻出するだけでも相当の苦労があったことが伺えます。
50系は地方幹線などで運転される普通列車での運用のみを想定し、それに特化した仕様にしました。基本構造は急行形電車である153系に通じるものでしたが、可能な限り製造コストを抑えるために、裾絞りのない直線状の車体側面にして構造を簡素にしました。そのため、12系などと比べると車体幅は100mm狭くなる一方で、頻繁な連結解放を考慮して、妻面は操車掛が作業をしやすくすることを考慮して折妻となりました。
屋根の構造もまた、旧型客車とは大きく変えられました。旧型客車は車両限界いっぱいに近い深くて丸い形でしたが、50系は他の新系列客車の座席車と同じく低屋根構造とし、簡略化した構造で製造コストの軽減をねらいました。また、この低屋根構造であれば、将来、冷房化改造を施すときにはわざわざ屋根構造の改造をしなくても、分散式冷房装置が搭載可能になることを考慮したのでしょう。実際、後年に海峡線で運転される快速「海峡」用の客車は50系の改造車が充てられましたが、このときAU13系冷房装置が搭載されましたが、屋根構造の大きな改造をせずに冷房化が実現しています。
車内はデッキ付きとしましたが、ラッシュ時の乗降を考慮してデッキ仕切りの扉は従来の片開き1枚から両開き2枚に改め、扉幅も広く取られました。また、車内にはデッキ仕切り付近はロングシートを配置し、その他はボックスシートを備える近郊形電車に近い構造として、収容力も高める工夫がされました。
客用扉も従来の幅700mmの手動開き戸から、幅1000mm片開き自動扉を設置し、走行中に乗客が誤って扉を開けることができないようになり、ここでようやく電車や気動車並の安全策が実現したのです。
側窓も構造が複雑で面積の小さい1段上昇式から、開口部を広く取った上段下降下段上昇のユニットサッシになり、製造工程の簡略化ともに広い窓面積で明るい車内を実現したのです。
また、将来は行き先表示板を廃することを考慮して、側面幕板部には自動方向幕が設置できるように方向幕窓などが準備されていました。残念ながら、客車時代は方向幕が設置されることはなく、結局はその活躍が終わるまで、「海峡」用に改造された5000番代も含めて行き先表示板が使われ続け、方向幕設置準備工事は使われることがありませんでした。
50系は旧型客車とは大きく異なる構造で、製造コストを大きく意識した構造であることはお話したとおりです。基幹となるオハ50のほかに、緩急車となるオハフ50も製造されましたが、こちらもまた1970年代終わり頃の国鉄を取り巻く環境を大きく意識した設計でした。
《次回へつづく》
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