旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

さらば客車改造気動車 異端の成功車とその軌跡【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 鉄道車両がその使命を終えたとき、その多くは廃車手続きがとられて車籍が抜かれた後、解体処分されます。新製から相当の年月、少なくとも数回の全般検査を受けて20年程度、長い場合は40年以上も運用され続けた車両は老朽化も進んでいて、それ以上の運用に耐えられないケースがほとんどです。

 そういった車両たちは、その天命を全うした運に恵まれたといえるでしょう。

 しかし、中には新製からさほど年月が経つことなく、様々な事情で用途を失い、余剰となって廃車の運命をたどる場合もあります。特に、1987年の国鉄分割民営化では、国鉄時代に必要だとして新製されたものの、サービスの廃止や列車の運行形態の大幅な変更などによって、10年も満たない車齢であるにも関わらず、大量の余剰車を発生させました。

 50系客車は地方幹線において普通列車などで運用されていた旧型客車を置き換えるため、また車両の近代化によって接客サービスの水準を引き上げるために、1977年から全部で953両も製造されました。

 しかし1970年代後半になると、国鉄を取り巻く状況は取り返しがつかないほど厳しいものになり、社会問題にまで発展してしまいました。天文学的数字とも言えるほどの赤字になり、国鉄の再建は政治的な大きな課題になりました。そして、1980年に成立した国鉄再建法によって国鉄の命運は決定的なものとなり、人員の削減を始め赤字ローカル線の整理とバス転換の推進など、合理化が推し進められることになりました。この合理化の推進によって、旧来からの機関車が牽引する客車列車から電車や気動車への転換が始まりましたが、それでもなお残る旧型客車を置き換えるために、50系客車は1982年まで製造が続けられました。

 1982年になると、第二次臨時行政調査会の答申と、それを受けた内閣の閣議決定によって、国鉄は分割民営化されることがほぼ決まります。民営化後、国鉄の事業を継承する新会社への負担を極力減らそうと、国鉄は客車列車からの転換をさらに進めたことによって、50系客車の活躍の場は徐々に狭められてしまいました。

 1987年の分割民営化では、暖地仕様の50系50形客車はJR東日本JR西日本、そしてJR九州に継承され、民営化後も暫くの間は使われ続けました。また、酷寒地仕様の50系51形はJR北海道に継承されました。

 

1987年の国鉄分割民営化で発足したJR北海道は、函館本線札幌都市圏の電化区間用として、711系に次ぐ交流近郊形電車として721系を新製した。人口の増加が著しい札幌都市圏の輸送力増強と、一部残存していた客車列車の淘汰を目的としたこの車両は、侵害車となったことのイメージアップにも貢献したといえる。(クモハ721−3222〔札サツ〕 札幌駅 2011年11月22日 筆者撮影)

 

 このうちJR北海道に継承された50系51形は、JR北海道にのみ継承されて、民営化後当初は引き続き普通列車で運用されましたが、フリークエスト・ダイヤへの転換による短編成・多頻度運転には不向きだったことや、急行列車の削減によって余剰となった急行形気動車を活用した気動車化、さらに札幌都市圏の電化区間には1988年から新製が始められた721系の増備による電車化も進んだことで、急速に余剰者が発生しました。

 その一方で、札幌市周辺の人口増加により鉄道輸送の需要が高まっていました。特に札幌市郊外部を走る札沼線の沿線は宅地開発が進み、旅客輸送量は急速に増加していました。しかし、札沼線で運用されていたのは国鉄から継承したキハ22やキハ40系で、それも列車を増発させるには充分な数とは言えませんでした。札沼線の列車の増発は急務でしたが、電化区間の電車化の推進と721系の新製を進めていたJR北海道にとって、新型気動車も新製する余裕はなかったのです。

 そこで、過去の経験から、電車化や気動車化によって余剰となった50系51形に目をつけたのです。

 JR北海道の前身だった国鉄北海道総局は、やはり余剰となった客車の有効活用として、ディーゼルエンジンを搭載するなどした客車を改造した気動車を製造し、これを運用した経験がありました。

 鋼体化改造客車である60系にディーゼルエンジンを搭載をはじめとして気動車として運用するために必要な装備を施したキハ08系がそれでしたが、そもそも種車となったオハ62やオハフ62は、鋼体化改造されたといっても旧型客車の構造であるがゆえに重量が重く、そこへ非力な国鉄制式エンジンであるDMH17系を1基だけを搭載したため走行性能は非常に悪く、運用には様々な制約がつきまといました。そして、キハ22を新製するよりも安価ではあったものの、思ったよりも割高だったため「失敗作」の烙印を押される始末でした。

 

国鉄時代にも余剰となった客車を気動車に改造した例はあったが、基本構造が頑丈かつ重量の重い車体に、非力なDMH17系エンジンの組み合わせは想定したような運用を困難にした。そのため、試作の領域を出ることなく「異端車」とされ、量産に至ることはなかった。(©Kone, CC BY-SA 3.0 出典: Wikimedia Commons)

 

 JR北海道は、札沼線用に新たな気動車を必要としていたので、新製はできなくても改造によって、できる限りコストを抑えながら必要な車両を調達することを考え、余剰が発生していた50系51形の気動車化に踏み切り、1990年から改造によって登場したのがキハ141系だったのです。

 

《次回へつづく》

 

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