旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

悲運の貨車〜物流に挑んだ挑戦車たち〜 走る魔法瓶・生活を支えたLNG専用タンク車 タム9600【3】

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《前回のつづきから》

 

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 日本車輌で製造されたタム9800形は、1973年11月に試作車となるタム9600が登場します。初めての「魔法瓶」タンク車でもあったので、基本的な試験や実際にLNGを積載して輸送する試験などがおこなわれ、問題箇所の洗い出しなどをしました。そして、翌1974年になると量産車も製作されましたが、1975年までに3両、試作車も合わせて4両という稀少型式となります。

 もっとも、ガソリンや石油類のように、LNGは全国各地へ出荷するものではなかったことや、保有するのが東京瓦斯一社のみ、それも神奈川県から茨城県までの輸送に限られていたことから、このような4両という少ない数でも十分に賄えたといえます。また、臨海部から内陸部へのLNG供給は、パイプラインの建設が進むにつれてこちらで供給されるようになり、タンクローリー輸送から順次パイプライン供給へと切り替えられていき、鉄道輸送も東京瓦斯の営業域内各地ではなく、茨城県日立市などに限定されたため、製作も4両に留まったのでした。

 製作されたタム9600形は、タンクローリー輸送の出荷場所であった根岸LNG基地の最寄りである根岸駅磯子駅ではなく、鶴見線鶴見川口駅を常備駅として配置されました。これは、あくまでも推測ですが、根岸駅は既に日本石油(当時)根岸製油所が近傍にあって、旅客ホームから海側は発着線に加えて専用線に通じる小規模な留置線群があり、さらに製油所内にも入換作業が行われる線路群があったことや、磯子駅は旅客用電車の絵通知線群が置かれていたため、東京瓦斯根岸LNG基地へ通じる専用線の敷設が難しかったことがためだと考えられます。

 

同じガスのバルク輸送を担ったLPG(液化石油ガス)の輸送を担ったタキ25000形。タム9600形のタンク体は、この車両を基本に設計された。しかし、タム9600形はタキ25000形よりも後に登場したにもかかわらず、12~14年で運用を失い廃車、背景式になってしまった。一方、LPG専用のタキ25000形は、1987年の分割民営化後も車籍はJR貨物に継承され、2007年まで運用が続けられていた。積荷の取り扱い難易度の違いや、同じガスでもLPGはボンベに封入して供給されるなど、流通経路や需要家での取り扱いの違いなどから、21世紀に入っても残っていたと考えられる。(パブリックドメイン

 これだけ既存の設備がある中に、たった4両によるLNG輸送のために、大規模な設備投資をしてまで専用線を引き込むには合理的ではなかったといえます。幸いにも東京瓦斯鶴見線沿線にもLNG製造工場を保有していたので、ここに専用線を引き込んで出荷した方が理にかなっていたという経営的な判断がなされたのでしょう。加えて、この頃はパイプラインの建設が推し進められ、内陸部への供給はこちらへ順次移行していました。こうしたことから、茨城県日立市へのLNG出荷は根岸LNG基地から、横浜瓦斯工場へ移管してここから発送することになったのでした。

 一方、国鉄の貨物輸送は年々赤字の額が膨らみ続け、屋台骨を大きく揺るがす存在になっていました。そのような中で、1982年11月のダイヤ改正では、貨物輸送の合理化がさらに推し進められ、貨物取扱駅の統廃合が進められていました。鶴見川口駅に通じる鶴見線鶴見川口支線も廃止になり、タム9600形の常備駅であった鶴見川口駅もその波に飲み込まれて廃止になり、浅野駅に統合されていきます。当然、常備駅も変更になり、浅野駅常備の貨車になりました。

 もっとも、支線は廃止になりましたが、その後も浅野駅構内扱いとして残り、タム9600形によるLNG輸送は続けられました。

 ところで浅野駅は、筆者が初めて訪れた1980年代には、既に無人駅となっていました。首都圏有数の大都市である横浜市にある駅で無人駅とはかなり衝撃を受けましたが、鶴見線の輸送実態を考えると頷けるものがありました。というのも、鶴見線の旅客輸送に限ってみれば、朝夕の通勤時間帯は沿線の工場などに勤める人々で混雑するものの、日中は輸送量が極端に少なくなるという、特異な性格の路線でした。日曜祝日になれば、日中はほとんど利用する人がいないローカル線の様相を色濃くしていたため、そのために駅員を配置するのは合理的ではなかったのです。当然、コストを縮減することを迫られていた国鉄は、それが首都圏の駅であろうと無人化するのは必然だったのかもしれません。

 とはいえ、貨物輸送においては無人化することは困難でした。入換作業や連結開放にともなうブレーキ試験など、様々な作業には人の手を必要とします。そのため、貨物輸送に関しては操車掛が配置されていたか、もしくは近傍の有人駅である浜川崎駅から必要に応じて人員を派遣していたと考えられます。

 浅野駅常備になったタム9600形は、引き続きLNG輸送を続けましたが、それも長くは続きませんでした。1984年に実施されたダイヤ改正では、貨物輸送の大規模な合理化が行われ、鉄道貨物輸送は大きなターニングポイントになりました。伝統的なヤード継走輸送式はすべて廃止になり、全国各地にあった操車場は機能停止し全廃。コンテナ輸送を主力とし、残った車扱貨物も拠点間輸送式へとシフトしていきます。タム9600形によるLNG輸送は拠点間輸送式であったため、このダイヤ改正では生き残ることができましたが、荷主でありタム9600形の保有者である東京瓦斯は、パイプラインの建設を続けていました。

 そして、分割民営化を翌年に控えた国鉄最後のダイヤ改正となる1986年改正をもって、タム9600形によるLNG輸送も廃止になり、試作車の製作から14年、最終増備車であるタム9603の製作からは12年でその歴史に幕を下ろしました。

 これは、タム9600形がわずか4両という稀少型式であったこと、拠点間輸送式ではあったものの、分割民営化後に貨物輸送を継承する貨物会社の経営基盤が脆弱であることが予想され、必要最小限の人員、特に貨物列車を運転する機関士の人数で対応できる列車の運転本数に限定させるため、小規模な輸送になるLNG輸送は削減の対象になったと考えられます。また、荷主である東京瓦斯もパイプラインの建設が進んでいたことや、輸送コストなどを考慮して鉄道輸送からの転換を図ったと考えるのが妥当かもしれません。

 こうしたことから、1986年にタム9600形はLNG輸送の廃止により用途を失い、翌年に設立されたJR貨物に継承されることなく、全車が廃車、形式消滅しました。

 わずか12~14年は、貨車としては比較的短い生涯だったといえます。しかし、LNGという生活に欠かすことのできない物資を運んだタム9600形は、まさしく市民の生活を支えた「ライフライン」としての役割を果たした重要な存在だったといえるでしょう。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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