旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

1984年の生田駅を通過する小田急ロマンスカー【3】

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《前回からのつづき》

 

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 1981年頃、小田急小田原線生田駅で捉えた3100形NSE車です。

 ロマンスカーを象徴するグレー地にオレンジバーミリオンとホワイトの帯をいれた塗装は、SE車以来の伝統ともいえるものでした。

 当時、筆者は小田急沿線ではなく、どちらかというと東急東横線沿線に住んでいたので、あまり縁のない存在でした。それでも、この写真を撮影したのは、小学生のときに習っていた剣道の試合に出るため、生田駅に近いところにあった松下技研の東京体育館に出かけた帰りだったと記憶しています。

 ご覧の通り、ホームには雨などを避ける上屋が駅舎やそこにつながる階段部分だけにあり、端のほうは現在のように上屋がない露天のままでした。当時はこうした設備の駅が数多くあったのは、上屋を設置する建設費を抑えるためだったといえます。また、ホームの外にある建物も、現在ほど多くないのがわかります。

 1980年代の小田急小田原線が通る川崎市北部にあたる多摩区麻生区は、まだ未開の地が多く畑や果樹園、さらには未開の森林が数多くあり、自然も豊かな場所で、建物があっても鉄筋コンクリートで造られたマンションはほとんど泣く、木造の家屋が目立っています。

 写真に写るNSE車は、既に更新工事を受けた後の姿で、前面の愛称板は登場時の逆五角形をしたアクリル板の交換式ではなく、長方形の電動幕式に取り替えられており、どことなくおとなし目の印象を受けたのは筆者だけでしょうか。

 この工事は1983年から実施されました。7000形LSE車が量産されたことで、運用に余裕も出てきたことから、長期に渡る期間が必要な車体更新工事も同時に施工されたことで、このようなスタイルになったのでした。

 とはいえ、やはりロマンスカーに乗るというのは、筆者にとって国鉄ブルートレインに次ぐ、憧れの存在だったことに変わりはありませんでした。しかし、やはりは小田急線は縁の遠い存在で、ロマンスカーに乗ることができたのは、この写真撮影から10年ほどが経った1997年頃のことで、外回りのエンジニアとして町田駅近くの顧客のところへ出向いた後、作業を終えて小田原にある次の顧客のところへ移動するときや、小田原近辺の顧客のものとから帰宅するときなどに利用した程度でした。

 

1984年11月、生田駅を通過する3100形NSE車。片瀬江ノ島行き特急「えのしま」の運用に充てられているが、この当時、「えのしま」には主に3000形SSE車が運用に入ることが多かったという。3100形NSE車は小田原線の特急運用が多かったので、珍しい光景かも知れない。まだ更新工事を受ける前の姿で、愛称表示板は五角形のアクリル板交換式のものを装備していた。(1984年11月11日 生田駅 筆者撮影)

 

 もっとも、初めて乗ったのロマンスカー江ノ島線で運行されていた「えのしま」で、それも3100形NSE車や7000形LSE車ではなく、ブロンズを基調とした派手な塗装を施され、2軸ボギー式台車を装着とした30000形EXE車だったので、NSE車に乗ることは叶いませんでした。

 そのNSE車ですが、意外なことが一つありました。

 ホームで乗客が乗り降りするための乗降用扉ですが、これが手動扉だったのです。国鉄の旧型客車なら納得できるものですが、1960年代に開発された車両で手動扉を採用していたのは例がなく、筆者が知る限りでは国鉄の20系客車ぐらいでした。

 NSE車の乗降用扉は、1両あたりに車端部に1箇所ずつ内側に開く、開き戸が設置されていました。特急用車両という、小田急にとっては看板車両であるにもかかわらず、通勤形電車には標準で装備されている自動扉でないことには驚きだといえるでしょう。これは、自動扉にするためには引き戸である必要があったこと、引き戸にした場合は扉を収納するための戸袋は欠かすことができないこと、NSE車の車体構造上、これらの設備を設置することが難しいこと、そして、ドアエンジンなども含めて自動扉にすると車両重量が重くなることにより、高速性能が落ちてしまうと考えられたためと推測できます。

 この手動開き戸という乗降用扉であったため、停車駅では必ず客室乗務員が扉を開閉させるとともに、列車を利用するために乗ってくる人を出迎え、降りていく人を見送るという、上質のサービスを提供できる副産物も生まれました。

 残念ながら、この写真を撮影したときの筆者はまだ小学生で、NSE車はもちろん、ロマンスカーに乗る機会も余裕もなかったので、こうした経験をすることはありませんでしたが、こうしてみると小田急にとってロマンスカーというのは別格の存在だったことがわかるでしょう。

 1980年から製造された7000形LSE車が増備されると運用に余裕ができたことで、更新修繕を施されるようになります。車体外装だけでなく、一部の搭載機器の交換や内装の一新もされ、LSE車やHiSE車とともに箱根特急として、保養地箱根へと向かう多くの人々を運び続けました。

 1996年に2軸ボギー式台車を装着し、20m級の一般的な車体構造をもった30000形EXE車が登場すると、当時のロマンスカー用として運用されていた車両の中で、最古参だったNSE車の命運が決し、徐々に置き換えられて姿を消していくことになります。そして、1999年7月に実施されたダイヤ改正では、特急列車はすべて自動扉を装備した車両で運用する方針になったことで、手動扉をもつNSE車はすべての定期運用から外されました。多くが廃車になっていった中で、団体臨時列車用として改装されていた「ゆめ70」用の3161✕11の編成も、翌2000年4月についにその運命も尽き、1963年から37年間の歴史に幕を下ろしたのでした。

 筆者が外回りのSE時代は、小田急を利用することが多くなったので、ことあるたびにNSE車を狙って駅のホームで特急券を買ってはロマンスカーを利用したものの、幼い頃に憧れた「孤高の存在」に乗ることはついに恵まれませんでした。乗れるのは、EXE車が多く、展望室を備えたスタイル、そして連接台車を装着した高速運転でも安定した走行性能をもつ車両こそがロマンスカーだと考えていたので、国鉄→JRなど他の鉄道事業者が運用する特急用車両とさほど変わらないEXE車は、「こんなのロマンスカーじゃない」などと思い、これがホームにやってくると愕然としたものでした。

 しかし、SSE車以来、NSE車、LSE車、そしてHiSE車と受け継がれてきた、走行性能と乗り心地を重視した連接台車構造の特急用車両の系譜はEXE車によって途絶えたものの、50000形VSE車の登場によって復活したのはついこの間のことでした。

 

3100形NSE車の後継と増備として製造された7000形LSE車は、3000形SE車以来の連接台車を装備、展望室を備えた構造はNSE車を踏襲しつつ、より洗練されたスタイルと充実した車内設備をもっていた。この後、御殿場線直通用の20000形RSE車や30000形EXE車は一般的な構造を採用したことで、小田急ロマンスカーの特徴的な構造は途絶えたが、50000形VSE車の登場によって復活した。小田急ロマンスカーといえば、やはりオレンジバーミリオンを基調とした塗装、そして展望席を備えた車両というのは今も昔も変わらないだろう。(小田原線を行く7000形LSE「はこね」 よみうりランド―百合ヶ丘間 筆者撮影)

 

 ところが、地下鉄千代田線への乗り入れ、さらにホームからの転落による触車人身事故の多発により、安全を最優先させるためにホームドアの設置が進められることになり、通勤用車両と扉位置が大きく異なる連接台車構造の車両は、これに対応できないことや、そもそも特殊な構造であるがゆえに更新工事には莫大な費用がかかることもあって、VSE車に至っては上質な設備を誇ったフラッグシップ的な存在であったにもかかわらず、僅か18年という短い運命となってしまいました。このことから、もしかするとEXE車は未来を先取りしていたのかもしれません。

 いずれにしても、小田急ロマンスカーという存在を不動のものにしたNSE車の功績は大きかったといえ、開成駅東口の前にある公園には3181号車が保存されています。そして、3211✕11の編成は、6両編成に短縮したうえで、喜多見検車区に収容されて保存されていましたが、中間車3両を抜き取り解体して3両編成に改め、2021年に海老名駅に開業したロマンスカーミュージアムに保存展示されて、流麗なその姿と上質な車内を間近で見ることができます。それは、かつて子ども時代に憧れを抱いた筆者の世代はもちろん、今を生きる子どもたちにロマンスカーの歴史と素晴らしさを語り続けているといえるでしょう。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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