《前回からのつづき》
こうして、下関所に配置になった1094号機は、同時期に配置された第7次車の僚機とともに、東京ー九州間のブルトレ運用を500番代P形から置換えていきました。いわゆる、ブルトレ牽引機の交代劇が始まったのでした。さらに、追加で配置されてきた第8次車も下関所と宮原機関区に配置になり、これをもって老兵EF58が受け持っていた京阪神ー九州間のブルトレ運用も置換えて、東海道・山陽本線を走る花形運用はすべて1094号機を含む1000番代PF形の独壇場となったのでした。
ブルトレ運用をすべて1000番代PF形によって賄われるようになると、1094号機は僚機らとともに主に京阪神ー九州感の「あかつき」や「彗星」といった列車の先頭に立つようになり、時折、台車検査で東京区所属機の代走としてヘッドマークを掲げて京都以西へも顔を出すようになります。
EF65 1000番代PF形の第7次車は、そのほとんどが過酷な運用を続けて老朽化が進行していた500番代P形が担っていたブルトレ運用を置き換えることを実際の理由として増備された。1094号機は1092,1093,1095号機とともに下関所へ、1096~1116号機は東京機関区に配置され、実際にブルトレ運用に就いた。東京区配置になった21両は、分割民営化を控えた1985年に車両配置がなくなり、一時期は新鶴見区などに転出したが、翌年は民営化後を見据えた再配置により田端所へ配転。以降も、下関所所属機とともにブルトレ運用を担っていた。写真は民営化後、「出雲」を牽引する1109号機。(出典:ウィキメディア・コモンズより ©Tatsunori Hachino, CC BY-SA 2.1 JP, )
しかしこの頃になると、機関車にとってブルトレは花形の運用でも、実際に列車としては凋落の一途をたどり続けるようになりました。特に、1975年の東海道・山陽新幹線の博多全線開業の影響は大きく、長距離を移動する利用者は新幹線へと流れていってしまいました。また、その頃より航空機の大衆化と、安価な深夜長距離バスの台頭は国鉄にとっては痛手であり、乗車券に加えて特急券と寝台券といた料金券が必要で、値段も高めであるブルトレは次第に敬遠されるようになってしまったのです。
もっとも過酷なのは、同じ頃に設定されていた京阪神ー九州間の夜行急行列車がいい例と言えるでしょう。安価な料金で、しかも周遊券のような企画乗車券では急行料金不要で利用できたのが、国鉄の相次ぐ運賃料金の値上げ施策の中で、企画乗車券の急行料金不要が廃止されたのです。そのため、それまで多くの利用者で賑わっていた列車も、料金改定が行われると利用者が激減し、ほとんど乗客が乗っていない閑散とした状態に陥ってしまったのです。そして、ついには列車そのものが廃止なり、機関車の仕事が失われるという結果をもたらしたのでした。
こうした影響もあって、ブルトレも閑散とした状態が続くことになります。国鉄も何とか目玉商品でもあるブルトレに利用者を取り込もうと、東京ー九州間のブルトレにテコ入れを行うことにし、「はやぶさ」にはロビーカーを連結するため牽引定数が上昇、1000番代PF型では力不足となったため、同じ頃、貨物列車の削減で運用に余裕があったEF66がその先頭に立つことになりました。
そのEF66は、それまで東京ー九州間のブルトレ運用を受け持っていた東京区ではなく、なんと1094号機が所属する下関所に配置になりました。とうぜん、他のブルトレ運用もEF66に奪われていくのではないかと考えられましたが、EF66は東京ー九州間の、1094号機を含む1000番代PF形は京阪神ー九州間のブルトレと、ある程度のすみ分けができていました。
こうして、EF66がブルトレ運用に入ってきても、1094号機は変わらず「あかつき」や「なは」などの列車の先頭に立ち続けました。
国鉄の分割民営化が現実的なって来る頃、苦楽をともした多くの僚機たちが下関を離れていくようになります。ブルトレ牽引機として白羽の矢が立ったEF66は、必要最小限を残して広島や吹田などへ配置転換していき、EF65も1000番代PF形の前期型が吹田へと異動していきました。この配置先が示すように、吹田や広島は民営化後は貨物会社に帰属することになり、彼らはよほどの事情がない限り二度と旅客列車の先頭に立つことのない配転となったのです。
それと入れ替わるように、宮原区に配置されていた1000番代PF形の第8次車が下関所に転入してきました。こうして、下関所は引き続き東海道・山陽本線のブルトレ運用を受持つ区所として在り続け、民営化後は西日本会社に帰属したため、1094号機も西日本会社に継承されていきます。
分割民営化後も、下関所に所属する機関車の構成に変化はあったものの、国鉄時代とさほど大きく変わることはありませんでした。筆者も、九州勤務時代に何度か実家に帰省することがあり、門司から様々なブルトレに乗りました。東京へ向かう「はやぶさ」や「さくら」「みずほ」はもちろん、わざわざ新大阪で新幹線に乗り継ぐことを前提に「あかつき」や「彗星」にも乗りました。門司からの乗車だったので、次の停車駅である下関で機関車を付け替えましたが、東京行きはEF66に、京阪神行きは1000番代PF形への交換でした。もしかすると、この中に1094号機もいたのかもしれませんが、残念ながら記録写真を1枚も撮影していなかったのが、今となっては悔やまれて仕方ありません。
下関所所属の1000番代PF形にとって、京阪神-九州間のブルトレ仕業は、まさに花形の仕事であった。しかし、年々利用者が減少の一途を辿り凋落する中で、付属編成の廃止や減車などの合理化が進められ、結果として「あかつき」「彗星」「なは」など、それまで単独で走っていた列車は併結による「多層建て列車」となり、牽引機も同じ下関所に所属するEF66に取って代わられ。最後まで単独で残った「なは」も、「彗星」の廃止で相方を失った「あかつき」の新しい併結相手になり、1000番代PF形のブルトレ仕業は消滅した。《出典:ウィキメディア・コモンズより ©Rsa, CC BY-SA 3.0, 》
その後、ブルトレの凋落は再起不能のところまでになってしまいました。2000年にはついに、「あかつき」の佐世保発着を廃止し、「彗星」も利用者の減少によって減車となったため、この2つの列車を併結する「多層建て列車」となったため、牽引機を1000番代PF形からEF66へと変更になりました。ここに、京阪神ー九州間のブルトレ運用から、1000番代PF形の撤退が始まったのでした。そして、2005年まで単独で運転されていた「なは」も、「彗星」の廃止で相方を失ってしまった「あかつき」と併結するようになり、同じく牽引機が1000番代PF形からEF66へと置き換わり、ついに、1094号機も含めて1000番代PF形によるブルトレ運用が消滅してしまったのでした。
誕生以来、一貫して下関でブルトレを含む運用をこなしてきた1094号機は、ついに定期運用の仕事を失い、その後の去就が問題となりました。
しかし、ブルトレ運用に就いていたとはいえ、基本的には貨物列車よりも重量が遥かに軽い旅客列車牽引が主体であったことと、東京区に配置されていた僚機とは異なり、京阪神ー九州間の列車が主な活躍の場であったことから、彼らよりは酷使されてはなく、比較的状態も良かったことから廃車解体という運命だけは免れるのでした。
《次回へつづく》
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