旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

常識を覆して「短い特急」を具現化したクモハ485【1】

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 いつも拙筆のログをお読みいただき、ありがとうございます。

 特急列車といえば、かつては10両以上の長大編成を組み、中にはグリーン車はもちろんのこと、食堂車も連結して長距離を走破する列車でした。これは、かつての国鉄の特急列車は主要都市間を相互に結び、かつ可能な限り早く到着することを目的にしつつ、急行列車よりも上級の特別な列車という意味がありました。新幹線もない時代は、この特急列車に乗ることで長距離を移動できることから、収容力を大きくするために長大編成になり、同時に長時間に渡って乗車を強いられることから、車内で食事ができる食堂車の連結が必須でした。

 例えば東海道新幹線が開業するまでは、東京と大阪を結ぶ特急「こだま」がありました。151系で運転された「こだま」には、パーラーカーと呼ばれる一等車があり、かつての特別二等車をも凌ぐ接客設備を誇り、富裕層の乗客が利用していました。また、ビジネス客の利用も多いことが見込まれ、12両編成中一等車は5両も連結され、現在の普通車にあたる二等車は半室ビュッフェ車も含めて6両だけにとどまるなど、今日の特急列車とは性格が大きく異なっていました。

 しかし、新幹線網の発達とモータリゼーションの進展は、長距離主体の国鉄特急列車網に大きな変化をもたらしました。「こだま」は東京ー大阪間を7時間30分かけて走破していましたが、東海道新幹線が開業するとその半分以下にあたる3時間程度で結ぶようになり、当然、長距離を移動する利用者は新幹線へと流れていきます。

 こうした需要の変化によって、新幹線開業後は長距離移動は新幹線に、そして新幹線停車駅から近傍の都市へは在来線の特急列車に接続させる方針になり、かつては食堂車が連結されて収容力を重視した長大編成を組む列車は姿を徐々に消していきました。

 さらに、かつては特急列車は庶民にとっては高嶺の花で、誰もが気軽に利用できるようなものではなかったのので、新幹線開業後の特急列車は利用者が急激に減っていきました。さすがにこのままではまずいと考え、急行列車を特急列車に格上げをし、同時に誰もが気軽に利用できるように方針を変えたのでした。

 とはいっても、高価な列車では誰も気軽に乗れるものではありません。そこで国鉄は、鉄道開業以来長く続けてきた等級制を廃止し、運賃体系を大きく見直しました。低廉な運賃に特急料金を支払えば、誰もが特急列車に乗れるようにしたのです。従来の一等車は特別車両という位置づけにして、運賃と特急料金の他に特別車両の料金であるグリーン券を購入さえすれば利用できるようにしたのでした。

 さらに、従来の特急列車は、1日に2往復から3往復、多くて5往復程度しか運転されていませんでしたが、この運転体制も大幅に見直しました。1時間毎にほぼ同じ行き先の列車が発車する運転体系に改めたことで、乗客が利用しやすいようにしたのでした。

 こうした努力にもかかわらず、国鉄の財政事情は悪化の一途を辿っていったのです。

 そこで国鉄は、従来の長大編成を組んで走るというスタイルを捨て、より収益効率のよい列車を設定するようになりました。

 こうして、1980年代に入ると、それまで長大編成を組み、食堂車も連結していた特急列車の短編成化が始められたのでした。

 

 

国鉄時代の特急列車は長距離・長時間移動の利用を想定し、長大編成を組むことが一般的だった。長時間移動を強いるため編成中には食堂車を連結し、利用者の利便を図っていたが、やがて新幹線の開業などで特急列車を取り巻く環境が変化し、特急列車の利用が一般化すると、こうした長大編成が合わなくなっていった。(©Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 特に国鉄が分割民営化が現実のものとなった1980年代半ば頃には、新幹線停車駅と地方都市を結ぶ列車は、その利用実態に合わせた編成にすることになり、最短で3両編成という、従来の国鉄では考えられない列車も登場しました。

 筆者が記憶にある限りでは、その最たるのが鹿児島本線門司港・小倉・博多−西鹿児島間を結んでいた特急「有明」でした。「有明」は、6時間以上もかけて走破していたため、当然のように食堂車が連結されていました。子ども心にそうした威容を誇る列車を書籍や雑誌などで見ると、国鉄の特急はやはりスケールが違うとさえ思ったものでした。

 しかし1980年代に入ると次第に利用者が減少していきます。安価な運賃を武器にした高速バスの台頭と、航空機の庶民化により誰もが手の届く存在になったこと、加えて慢性的な巨額の赤字に悩んだ国鉄が運賃を相次いで値上げしたこと、さらには末期症状とでもいいましょうか国鉄のサービス水準は人的にも質的にも大きく低下していたためでした。もはや12両編成の列車が満席になることなどほとなく、食堂車の利用も減少してしまい挙げ句に営業を休止することで、さらにサービス水準が低下していくなど、国鉄の特急列車を取り巻く環境は大きく変化していたのです。

 こうなると、国鉄も特急列車を旧来のスタイルのまま放置するわけにはいかなくなりました。特急列車を廃止することはできませんが、空気ばかりを運んでいて採算が取れないのであれば、現実にあった内容へと変えていくことは必要なことです。

 それまで伝統的に、「特急列車には食堂車を連結する」という不文律を破り、営業休止になってほとんど活用されていなかった食堂車を編成から外しました。また、過剰供給になっていた長大編成を改め、利用者の需要に合わせた座席数にするために、編成を短縮することにします。

 これに合わせて、特急列車の運転本数を見直し、それなりに需要が見込める列車については短編成化の上で増発に転じ、より利用しやすい列車にしたのでした。

 鹿児島本線を走破する「有明」はまさにこの施策にぴったりとあてはまったのです。

 「有明」はそれまで食堂車を組み込んだ12両編成から、食堂車を減車させました。それでも11両編成は供給過剰となったので、1984年のダイヤ改正グリーン車含む4M3Tの7両編成へと短縮されます。しかしそれでも供給過剰が目立ち始めたので、翌1985年のダイヤ改正では一部を5両編成へと短縮させました。

 このときに大きな問題が一つ立ちはだかったのです。

 7両編成では4M3Tと、電動車と付随車の比率はほぼ1:1でした。国鉄の新性能電車は原則としてMM'ユニットを組むように設計されていたので、電動車は必ず偶数にしなければなりません。しかも、電動車と付随車の比率は電動車に重きをかなければ、加速性能を悪化させてしまうことになります。5両編成では4M1Tにしなければなりませんが、単に普通車だけで組成するのであれば問題にはなりませんでした。

 問題はグリーン車と先頭車だったのです。

 

《次回へつづく》

 

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