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その昔、新幹線で食事をしたことがあると話すと、「弁当を食べたの?」と言われます。いえ、弁当なら今でも新幹線に限らず、在来線の列車でも食べることができます。そうではなくて、新幹線に「レストランがあった」と言う方がピンとくるようで、その話をすると「すごい!」「私も食べてみたい!」と返ってきます。
残念ながら、現在の新幹線のレストランで食事をすることは叶わなくなってしまいました。それには様々な背景がありますが、根本的には日本の鉄道から「食堂車という車両」が消滅してしまったことにほかなりません。
かつては長距離を走る列車には当たり前のように連結していた食堂車は、なぜ姿を消してしまったのでしょう。
かつて、国鉄では長距離を長時間かけて走る優等列車には、必ずといっていいほど食堂車が連結されていた。それは、新幹線も例外ではなく、1974年の山陽新幹線博多全線開業とともに、「ひかり」の所要時間が6時間を超えることから、食堂車を連結して営業していた。(36形の廊下に掲げられた「食堂車」マーク。筆者の記憶では、満席の表示が消えることはなかった。36-84 リニア・鉄道館 2022年8月3日 筆者撮影)
日本の鉄道から食堂車が消滅してしまった理由の一つに、長時間をかけて長距離を走る列車がなくなってしまったことが挙げられます。
国鉄の食堂車の連結基準として、「長距離を長時間かけて運行する優等列車」があります。明文化されていたかどうかはわかりませんが、長距離を走破する多くの特急列車や急行列車には、必ずといっていいほど食堂車が連結されていました。特に特急列車から食堂車を外すことは論外だったようで、国鉄の伝統として長距離を走破する特急列車には必ず食堂車を連結し、そのことが特急列車としてのステータスと考えられていました。
もっとも、蒸機が主役だった時代、列車の運転速度は現在のように速くなく、とにかく時間がかかっていました。それは特急列車も同じことでしたが、特急列車の場合はどうしても長距離輸送となってしまうので、供食設備は必要不可欠でした。まして、「特別急行列車」という「特別」な列車であることと、乗車券の他に特急料金を徴収しているので、サービス水準が普通列車と同じでは利用者から「けしからん」と言われてしまいます。
また、長時間、長距離を乗る人たちにとって、極端な話、食事の有無は生きるか死ぬかの切実な問題でした。例えば東京から大阪まで運転されていた「つばめ」は、戦後「へいわ」という愛称で運転が再開されました。すぐに「つばめ」となりましたが、このときの運転時間は9時間にも及ぶため、乗客のお腹を満たす食堂車は不可欠でした。特に一等車の乗客は、高い運賃と特急料金を支払って乗ることができる富裕層であったり名士であったりするのですから、そうした人たちに三等車の乗客と同じように駅弁をかって座席で食べてくれとは言えません。
1956年に東海道本線が全線電化され、列車の牽引機が電機に変わり運転速度が上がっても、運転時間は7時間30分かかり、やはり食堂車は必要な存在でした。1958年に151系電車に変わっても6時間30分はかかり、東京を7時に発車してた列車の大阪着は13時40分なので、途中で食事を必要とする人も多かったといえます。
このように、かつての国鉄の優等列車は、ステータスの面もあるといえるかも知れませんが、現実的には運転時間の長さと、乗客の利便性や快適性などを考慮すると、食堂車という存在は重要な位置を占めていたといえます。
列車が蒸機牽引から、電化の進展で電気機関車に替わり、技術の発達で電車へと変わっても、長距離列車には食堂車は連結されていました。そのことは、国鉄が満を持して世に送り出した新幹線も同じでした。
東海道新幹線は1964年に東京−新大阪間で開業したことは、すでに多くの人が知るところでしょう。開業当時は、最高運転速度が200km/hで、速達型の「ひかり」が4時間、各駅に停車する「こだま」が5時間で運行されました。在来線時代の「こだま」が6時間30分で結んでいたことを考えると、大幅なスピードアップと到達時間の短縮を実現させたのでした。
このとき、「ひかり」「こだま」ともに6時間を切ったことから、東海道新幹線には食堂車を連結しない方針が立てられました。言い換えれば、到達時間が6時間以上かかる列車には食堂車を連結し、それ以下の場合は連結しないということが明確になったのです。
とはいえ、4時間から5時間も列車の中で過ごすには、やはり何らかの供食設備は必要でした。特に早朝や昼食の時間帯、夜間に乗車する時には、食事を摂る人もいることでしょう。車内販売もありますが、数と種類に限りもあり、また当時は長距離列車に供食設備を備えた車両があるのはごく当たり前だったので、さすがに新幹線にまったく連結しないというのはサービス低下に繋がります。
そこで、東海道新幹線で運用されていた0系には、簡易な供食設備を備えたビュッフェ車を2両連結させて対応することにしました。このとき製作されたビュッフェ車は35形で、半室を普通座席車(新製当時は二等座席車)とし、もう半室を簡単な調理設備を備えた食堂室でした。
35形の特徴は、車体中央部に業務用の扉が設けられていたことですが、この扉は引き戸ではなく開き戸が備えられていました。そのため、外観から容易に識別できましたが、新幹線は高速で走行するため、トンネルに入ると気圧変動によって車体が変形し、室内との気圧差もあることから在来線の車両と比べると、気圧漏れがないように気密構造をもつ頑丈なものでした。乗降用扉は自動で作動するので特に問題はありませんでしたが、この扉は手動で開閉するため、相当な力が必要だったのではないかと考えられます。
もっともこの位置に扉があるのは海側だけで、これは厨房が海側にあるため食材などを搬入搬出のために設置されたものでした。車内をレール方向に半分に分けたカウンターが設けられ、このカウンターの内側、すなわち厨房側に流しが設置されていました。反対側の海側壁面には電気レンジの設置台や電子レンジ、冷水機、そして飲料冷蔵ケースなど調理用什器が所狭しと置かれ、簡単な調理で提供できる軽食を提供していました。
一方、ビュッフェを訪れ軽食を購入した乗客は、多くの場合はその場で喫食していました。もちろん、自分の座席へ持ち帰って、ゆったりと座って飲食を楽しむこともできましたが、その場で食する人もいたことでしょう。国鉄の長距離列車に連結されていた多くの半室簡易食堂車であるビュッフェでは、椅子に座ることのない立ち食い形式が採られていました。そのため、ビュッフェで提供される軽食は、うどんや蕎麦といった麺類や、サンドイッチ、カレーライスなど調理の手間がかからず、立席でも喫食できるものでした。
しかし、東海道新幹線は在来線とは比べものにならない速さで運転され、食堂車の連結基準ともいえる6時間を切ったとはいえ、1両も食堂車が連結されていないことから、在来線とは異なりビュッフェにもいくつかの椅子が用意されていました。
35形のビュッフェ室は、カウンターとは反対側の山側に、乗客が購入した軽食類を置くことができるテーブルが備えられていました。このテーブルは山側窓下にレール方向に長くとられ、その前には13個の丸椅子が固定されていました。本格的な食堂車ほど座席が多くないので、あまり長居されてしまうと回転率が悪くなると考えたのか、はたまた「簡易」な食堂という考えだったのかはわかりませんが、食堂車と比べるとテーブルは高い位置にありました。そのため、山側のビュッフェ室のまどは、座席室の窓より高い位置に設けられ、これもまた35形の外観上の大きな特徴でした。
いずれにしても、このカウンター席にちょっとした食事を置いて、窓から流れ行く光景を眺めながら、場所によっては美しい富士山を見ながら食事ができるというのは、新幹線を利用する人にとって大きな楽しみの一つだったかも知れません。
《次回へつづく》
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