旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

令和の春に静かに退いていった営団7000系【3】

広告

《前回の続きから》

 

blog.railroad-traveler.info

 

 2008年に副都心線は、池袋−渋谷間が開業しました。この間、帝都高速度交通営団は2004年に民営化され、東京地下鉄株式会社東京メトロ)となり、7000系の前面貫通扉や車体側面の客室窓上に取り付けられていた団章(Sマーク)から、「ハートM」マークへ取り替えられました。

 この副都心線・池袋−渋谷間の開業とともに、従来、有楽町線新線と呼ばれていた和光市−池袋間の新線は副都心線に組み入れられたことで、副都心線和光市−渋谷間11,9kmの路線となりました。

 既に副都心線に対応する改造工事を受けていた7000系は、増備車となる10000系とともに副都心線での営業運転にも充てられました。もちろん、有楽町線の運用も引き続き充てられたので、7000系はどちらにも顔を出すことになりました。

 

晩秋の横浜を行く営団東京メトロ7000系電車。この時点ではまだ、日比谷線用の13000系の増備が真っ只中だったため、後継車両に関しては具体的なものではなかった。しかし、プレスリリースでは近々に置き換えていくことが示されていたため、その活躍もそう長くはないことがわかっていた。(営団7000系28番編成 2021年1月2日 妙蓮寺ー白楽間 筆者撮影)

 

 一方、有楽町線の運用増によって車両が不足することから、弟分として07系も有楽町線で運用されていましたが、こちらは乗降用扉の割付が7000系と異なるため、副都心線のホームドアに対応できませんでした。そのため、有楽町線の車両は副都心線と共通で運用することが決まると、ドア割付が合わない07系は副都心線での運用に充てることができないことになり、効率的な車両運用の観点から07系は「余剰車」となってしまいました。

 07系は1993年から製作された車齢10年を超えたばかりで、鉄道車両としてはまだまだ「若い」車両です。しかも、千代田線用に製作された06系が1編成しかなかったのに対し、07系は6編成60両が量産されていたため、06系のように「少数形式」として廃車するわけにもいきませんでした。

 そのため、有楽町線でともに走っていた07系は、東西線に残存していた抵抗制御(更新修繕によって界磁添加励磁制御へ換装)の5000系を置き換えるために転用改造を受けて異動していき、代わりに10000系が増備されたのでした。

 新たにやってきた10000系とともに、有楽町線副都心線の運用に就いた7000系ですが、2008年に渋谷までの全線が開業していたにも関わらず、列車は渋谷止まりとされました。計画では、渋谷から東急東横線に乗り入れ、横浜方面まで運転されることになっていましたが、この時点では実現していませんでした。

 2002年に副都心線東横線相互直通運転は決まっており、この時点で渋谷−代官山間の地下化工事が始まっていました。本来であれば、副都心線の開業と同時に東横線に乗り入れをすればよかったのですが、実際には2013年まで待たなければなりません。

 この手の工事は往々にして遅れることがあります。特に、既存の営業線を何らかの形で改良や移設をする場合、多くの制約がつきまといます。日中などは営業列車が運転されているため、できる工事も限られてしまいます。できても、列車の安全運行を妨げないように細心の注意を払う必要があり、その進み具合は非常に遅いものです。

 たいていの工事では、必要とされる期間を定めて進められます。その進み具合は、特に何もなく順調に進んだ最短期間で設定されるため、何らかのアクシデントが発生するとたちまち「工事の遅れ」が出てくるのです。

 筆者はこの手の工事で、○年開業とか宣伝されると、それよりも2〜3年は多くかかると見積もるようにしています。実際、最初の計画通りに工事を終えて開業したり、あるいは改良工事が終わったりすることは皆無に等しいからです。大規模工事では、アクシデントはつきものなので、それを見越した設定をすればよいものを、なぜかアクシデントを想定しない期間を設定するのは、周囲への宣伝なのかそれとも技術者の技術力が低いのか、はたまた他に理由があるのかはわかりませんが・・・。

 話がそれてしまいましたが、いずれにしても東横線渋谷−代官山間の地下化は2013年に完成し、いよいよ副都心線との相互乗り入れが始められました。

 この相互乗り入れによって、7000系はもちろん東横線へと乗り入れていき、かつて誰もが予想しなかった神奈川県内も走るようになりました。もちろん筆者も、この機能重視で斬新な前面をもつ車両が地元を、それも毎日のように利用した路線を走るなど夢にも思いませんでした。それが、いつしか当たり前の光景になっていき、駅で列車を待っていれば7000系がやってくるのも普通になっていきました。

 とはいえ、2013年に東横線を走り始めた時点で、7000系は最も古い車両で齢40年に達していました。改造を受けてからは20年が経っていませんでしたが、それでも老骨に鞭打って走り続けていたことには変わりません。

 その走行範囲も、有楽町線和光市−新木場間はもちろん、和光市からは東武東上線に乗り入れて遠く森林公園まで、新桜台からは西武有楽町線を経て、池袋線へ乗り入れ飯能までと比較的ひろいものでした。そこへ、渋谷から横浜、元町・中華街までとさらに広がり、その距離は80km以上に及ぶ長距離となり、車両自体の累計走行キロ数は増える一方で、当然、老朽化の進行を早めていくことになっていきました。

 それでもなお、7000系有楽町線副都心線の主役の座を守り続け、埼玉西部から城西地区、さらには都心部や城南地区を結び、これらの地域と神奈川県東部の人たちにとって、重要な鉄道路線としての役割の一端を担い続けました。

 

この時点で、7000系最古参の01編成は現役だった。前掲の28編成は非常用貫通扉に8両編成を表すステッカーが貼付されてるが、こちらにはそれがなく10両編成を維持し続けた車両だった。東横線内では各停は8両編成のみで運用され、10両編成は急行または特急の運用に限定されていた。機器の更新は受けているが、乗降用扉の窓は小型で、側窓も天地方向に小さい。登場時は上段下降・下段上昇のサッシ窓であったが、後年の更新工事で1枚下降窓に交換された。この小さい窓は、その名残である。(営団7000系01編成 田園調布ー多摩川間 2018年8月11日 筆者撮影)

 

 それも2010年代終わり頃になると、次期新型車両の話が持ち上がるようになります。

 東京地下鉄日比谷線の20m化による13000系の増備が終わると、古参車両である7000系半蔵門線用の8000系の置き換え計画を始めることになります。どちらも40年選手なので、当然の流れといえばそれまでですが、老朽化という現実の前に抗うことはできません。

 2020年に入り、後継となる17000系の製造が始まりました。2020年に10両編成3編成、30両が製造されるにとどまりましたが、この編成を使って乗務員訓練などが行われました。そして、2021年からは営業運転が始められましたが、この時点ではまだ「少数形式」でした。

 しかし、2021年に17000系の増備は急ピッチで進められ、筆者もよく読ませていただいている甲種車両輸送を多く取り上げていらっしゃるブログには、ほぼ毎月のように17000系が製造者である日立製作所笠戸事業所や近畿車輛を出場し、甲種車両輸送によってJR貨物の機関車に牽かれて続々とやってくる様子が紹介されていました。

 こうして、続々と新製されてくる17000系がやってくると、わずか1年近くで21編成180両の増備が終わり、老兵である7000系はその任をあとに託して退いていき、

この間まで当たり前に見かけていた7000系も、気づけばその姿を消していました。

 筆者の今の職場は、ちょうど東横線のすぐそばにあり、毎日のように通過する列車を見ていますが、気づけば7000系の姿はなく、真新しい17000系が走っていく姿をよく見るようになりました。時の移ろいは早いとはいいますが、わずか1年で置き換えるとは思いもしなかったことで、近年の車両置き換えのスピードには驚かされるものです。

 鉄道事業者にとって、長期に渡って同じ形式の車両を増備することは、多くの車種を混在させることになります。そうなれば、補修用の部品といったサプライ面でコストが掛かり、検修面でも非効率になります。かつてはこの手法でしたが、今日ではそうした方法を採る鉄道事業者は少なくなりました。逆に短期間で大量に新製することで、量産効果による車両製造コストを軽減する方が主流になりつつあるようです。

 2022年4月、有楽町線副都心線の主役だった7000系は、現役を退いていきました。

 2020年初めから続く新型コロナウイルス感染症の影響で、この間、現役を退いていった鉄道車両の多くは、かつてのようにさよなら列車の運転や、お別れセレモニーなどを開催されることなく、鉄道関係者のみで静かにその労をねぎらう程度になりました。7000系もまた、その例に漏れず、静かに運用を離れて48年に渡る歴史に幕を閉じました。本来であれば、数々の新機軸を投入し高い省エネ性を備え、左右非対称の斬新な前面をもつデザインは、今日の鉄道車両に大きな影響を与えたと言えるでしょう。元祖である兄貴分の6000系は盛大に見送られたのに対し、7000系は時世とはいえ、その寂しい引退は残念でなりません。

 しかしながら、多くの人々を48年間に渡り輸送し続け、都心を貫く、神奈川県から埼玉県を結んだその功績は、特筆に値するものといえます。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

あわせてお読みいいただきたい

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info