ここ数年、3月になると必ず行われているのがダイヤ改正です。
そのダイヤ改正が実施される度に、これまで走り続けていた車両たちがその役目を終えて姿を消していく。鉄道車両も工業製品の一つであり、晴れて日差しが強かろうが、雨が降って寒かろうが、場所によっては雪の中だろうが構うことなく走り続ければ、老朽化が進んでいくことは防ぎようがありません。
めいっぱい働き、そして後を後輩に託して去って行く。
それは世代交代がされる度に見られる光景でした。
今年(2019年)のJRダイヤ改正でも、世代交代がありました。
国鉄時代から全国に張り巡らされた特急列車網の中心的存在ともいえた485系電車が、ダイヤ改正を目前に一般用の車両たちがすべて廃車となり姿を消していきました。前身となる481系が誕生したのが1964年ですから、実に半世紀以上も存在したことになります。
こうした車両たちは、近年作られた最新の車両たちに後を託して、その寿命を全うしたといえるでしょう。
しかし、こうした幸運の車両たちばかりではありませんでした。
ダイヤ改正をした直後の3月29日、我が国でもっとも強力なパワーを与えられた電気機関車・EF200がついにその歴史に幕を閉じました。
trafficnews.jp この機関車、すでに拙稿でもお話しいたしましたが、1列車あたり1,600トンという途方もない重量貨物列車を牽くことを前提に、当時の最新技術をふんだんに採り入れて開発されました。
1990年に試作機が誕生して以来、幾度の試験が行われましたが、あまりにもパワーがありすぎたため消費する電気量も莫大になり、架線の電圧降下を招いたり、変電所が異常電流を検知したとして給電を停止させたりと、課題は山積でした。
それでも、荷主の要望と、可能な限り合理化をしていこうとしたため、1列車あたりの牽引定数の大幅な向上を目指して量産されます。
電気設備については、国からの補助金を得ながら変電所の増強などをしますが、それができたのはごくごく僅か。他社の貨物列車のために不必要な設備をもたされ、さらにその維持管理まで請け負えば、当然コストがかかりその費用は持ち出しになるので、旅客会社としては迷惑な話でしかありません。とはいえ、国の施策でもあるため、まだ特殊法人であった旅客会社も渋々ながら変電所の増強工事を受け入れましたが、それでも絶対数は少なかったでした。
そんな周囲の状況のため、EF200は量産されてもそのパワーを遺憾なく発揮することを戒められてしまったのでした。
高価な機関車を20両も量産しておきながら、1,600トン列車は実現することなく、運転に当たってはEF66と同じ程度の出力まで抑えるという制限は、会社にとっても機関車にとっても不幸でしかありませんでした。
以来、東海道から山陽線を走り抜ける貨物列車の先頭に立ち続けましたが、少数機であるということも彼らにとっては後々不幸となってしまいました。
ところで、このEF200は個人的に非常に思い入れのある機関車(カマ)でした。
私が会社に入った1991年当時は、前年に落成した試作機である901号機が新鶴見を拠点に試験走行を繰り返していました。
翌年、1992年からは量産機が次々につくられ、日立製作所で落成した車両たちは、配属となる新鶴見機関区へと送られてきました。そんなピカピカのEF200を、保守作業で新鶴見に行ったときには間近で見ることもありました。
とはいえ、運転系統ではなく施設・電気系統で働く私にとって、新しい機関車など縁がない存在です。まあ、近くで見ることができるのは、鉄道マンであるが故の特権(?)だったのでしょうが、機関士になる夢を諦めていた私にとってはある意味「どうでもいい」存在にまでなっていました。
ところが、じつはどうでもいいなんて言っている場合ではなかったのです。
というのも、真新しい電気機関車は新鶴見にやってくると、最初に機関区の検修陣が受け入れ整備を行います。いわゆる「竣工検査」というもので、会社が指定した仕様でできているのか、そして不備はないかなどのチェックと、実際に運用するための整備をします。
この整備を受けると、ようやく本線を走る・・・ことはできないのです。
機関区の検修とは別に、もう一つの整備を受けなければなりませんでした。
それが、列車無線機と防護無線装置です。
細かいことは残念ながらお話できませんが、これらの装置は通信機器であり取扱いも特殊になるので、機関区の検修科が管理するのではなく、通信関係の部署が扱っていました。つまり、私が勤めていた電気区が管理していたのです。
夏のある日、先輩に呼び出された私は、機関区に行ってEF200に無線機を取り付けてこいと言われました。それまでは先輩と一緒になって出かけて、その作業も近くにいて補助するのが仕事でしたが、なんとその先輩は入社2年の私に一人誰かを連れて行ってこいというのです。
いわば「一本立ち」と呼ばれるものでした。
ある程度仕事をしながらどうすればよいのか、落としてならないことは何かなどを内容や手順などをある程度理解しできるようになると、初めて仕事を任せてもらえるようになるのです。
私の「一本立ち」は、なんとEF200に無線機を取り付けることでした。
暑い夏の日差しが照りつける中、機関区の仕業検査を担当する検修科員に案内してもらって、工具カバンとこれまた真新しい無線機類をもって、蒸し風呂状態の新車の運転台に上がって、コンソールに無線機を取り付けました。
もちろん、パン上げ(パンタグラフを上げること)をしないので、EF200ご自慢の冷房装置も使えませんでした。だから、窓とドアを開けておく以外に涼しくする要素はなく、汗ビッショリになりながら必死になって作業をしたのを思い出します。
つまり、EF200は私の鉄道マン生活の中で、初めて一本立ちをするための仕事をさせてくれた貴重な存在だったのです。
そのEF200は、私が会社を辞した後も走り続けました。
時には通りがかった新鶴見で、あるいは旅先の京都で、その勇姿を幾度も見ることがありました。しかし、その勇姿とは裏腹に、与えられた性能を遺憾なく発揮することを許されず、常にパワーを抑えながらの運用は本意ではなかったことでしょう。
しかも少数機であるが故に、故障によって補修が必要になっても部品の調達が困難になってしまっていたため、早々に廃車となって他の僚機たちに部品を供給する立場となった車両もいました。
言い換えれば、EF200は運用面でも検修面でも悲運の機関車であったといえます。
しかし、このEF200で培われた技術と経験は、後に登場するEF210やEH500といった後輩たちを開発する礎になったことは間違いありません。活躍期間こそ先輩であるEF65をはじめとして国鉄形電機よりもずっと短い*1ですが、我が国の電気機関車史の中ではとても大きな存在であったといっても過言ではないでしょう。
思い入れのある存在だけに、今回の引退のニュースに接して「一つの時代が終わった」ことを実感せずにはいられませんでした。
とにもかくにも29年間、EF200の活躍にを称えたいと思います。
そして、さらば「最強電機」。
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*1:最も短命だった量産電機はED74の20年。試作機に終わった形式を含めるとED500が2年で終わっている。