4.185系の歩み
(1)特急形電車としては異色の登場劇
185系は1981年1月から田町電車区(→田町車両センター→東京総合車両センター田町センター)に配置された。国鉄の特急形電車としては久しぶりの新形式、それも従来の画一化したスタイルから脱却した斬新なデザインということもあって、それなりに注目はされたようである。
ところが、前述のように185系が直接置き換える先輩車両は153系。急行形を特急形で置き換えるというのは、この時点ではあまり例がなかった。
もっとも、この頃の国鉄は料金が安価で、特急を補完する存在だった急行列車を整理し、特急への格上げを推し進めていたので、急行を特急へ格上げ・統廃合のタイミングで車両も特急形に置き換えるという例は数多く存在した。しかし、老朽化した急行形を直接特急形で置き換えるというのは、後にも先にも185系だけだったと思われる。
こうして、田町電車区にやってきた185系は、最初に普通列車として運用から仕事を始めることになる。これもまた、特急形電車としては異色の仕事始めであるといえる。
このような運用から仕事を始めたという背景には、1980年代初めの頃も2ドア・デッキ付の急行形である153系も、より輸送力に優れた113系に混ざってユーカル輸送に活躍していたためであった。今日では朝夕のラッシュ時を中心に激しい混雑を捌くため、4ドアのE231・E233系が主役となった東海道本線の現状からは想像ができないことであろう。これも、かつての「汽車」時代の名残が残っていたためだといえる。そして、これを置き換えるために185系が宛がわれたのだった。
185系が仕事を始めてから間もなく、今度は急行「伊豆」としても走り始めた。これで、ようやく本来の仕事である優等列車としての仕事も始まったが、それでも本来の特急列車ではなく急行列車としての仕事であった。特急形の車両が、それも新製間もない車両が格下の急行列車が優等列車としての初仕事というのは、国鉄の長い歴史の中でも極めて稀なことであろう。
185系が登場した1981年1月は、まだダイヤ改正が行われる前で、東京-伊豆間の優等列車は急行「伊豆」が中心であり多数運転されていて、特急は「あまぎ」が183系による2往復の運転であった。
▲1981年に登場した185系は、153系が担っていた仕事を順次代替していった。とはいえ、特急形電車として造られたものの、そのデビューは地味な普通列車というのは国鉄の長い歴史の中でも185系が最初で最後だったかも知れない。優等列車としては急行「伊豆」が最初で、これはこの年の10月に行われたダイヤ改正で登場する特急「踊り子」の運転までの暫定的なものだった。(©Shellparakeet [CC0], ウィキメディア・コモンズ経由で引用)
加えて、185系が走り始めた1981年1月頃はまだ計画された両数すべてが揃ったわけはなく、まだ増備の途上であったため、153系の付属編成から置き換えが始められた。そのため、基本編成は185系の基本編成が落成するまでは現役のままだったので、真新しいアイボリーホワイトの車両と見慣れた湘南色の車両が手を携え、併結した状態で営業運転に就いたことも大きな変わりダネのひとつであった。
やはり、これも153系がこなしていた仕事だったが、急行「伊豆」の運用は一度に185系に置き換えるのではなく、185系が田町に送り込まれてきて増えてくる度にその仕事を代わっていき、最終的に10月のダイヤ改正まで予定されていた両数がすべて出揃い、長らく湘南を走り続けてきた153系は、10か月の移行期を経てようやく一線から退いていった。
(2)特急「踊り子」としての活躍
1981年10月のダイヤ改正は、東海道本線の湘南・伊豆方面を結ぶ優等列車に大きな変化をもたらした。それまで急行「伊豆」がその中心で、特急「あまぎ」はわずか2往復という構成だった。どちらも首都圏と湘南・伊豆を結ぶ優等列車ではあったが、前者は急行形の153系で、後者は特別準急用の157系から後に特急形の183系で運転されていたので、接客設備に大きな差があった。
しかし、185系の登場によって急行「伊豆」が特急形で運転されるようになり、サービス面においては特急「あまぎ」との差は縮まってしまった感があった。とはいえ、これも暫定的なものであったのでやむを得なかったのであろう。
1981年10月に実施されたダイヤ改正で、それまでの特急「あまぎ」と急行「伊豆」は統合され、新たにL特急「踊り子」として再編成された。特急と急行の二本立てだった東京-湘南・伊豆間の優等列車は「踊り子」に統一された。
この背景としては既に何度も述べてきたように、国鉄は1970年代半ば過ぎから急行を特急へ格上げして、速達性の向上を主としたサービス改善に取り組んできた。しかし、一方では陳腐化した設備の車両で運転される急行の利用率が低下したことや、特急が以前より一般にも利用しやすくなってそちらに流れたこと、こうした施策を推し進める一因であったといえる。
加えて、慢性的な巨額の赤字に苦しむ国鉄にとって、増収は喫緊の課題であった。国鉄の運賃は政府の許可がなければ改定できない仕組みで、運賃による収入を増やすことは叶わなかった。そこで、安価な急行を多数走らせるより、料金収入が期待できる特急を多数走らせる方法が増収の機会になると考え、多数の急行を特急に格上げしていった遠因でもあった。こうしたことで、僅か150kmにも満たない距離を走る急行「伊豆」は、特急「踊り子」へと代わっていったと考えられる。
特急「踊り子」としての仕事を始めた185系は、田町電車区に総勢で 両が配置された。「踊り子」は一部が183系で運転されていたが、これは先代の「あまぎ」の運用を踏襲したものであった。が、多くは185系による運転で、東京から東海道・伊東線を経由して伊豆急行線へ乗り入れる運用と、三島から伊豆箱根鉄道駿豆線へ乗り入れる運用があった。この両者は同じ列車として併結して運転され、前者は伊豆急下田行きとして10両で組成された基本編成が、後者は修善寺行きとして5両で組成された付属編成が宛がわれた。
国鉄の特急としては珍しく、終着がいずれも乗り入れ先の私鉄線内というのも「踊り子」ならではのこと。基本編成は伊豆半島東部の沿岸をとおる伊豆急行線へ乗り入れるが、こちらは東急電鉄傘下の私鉄である。
一方、付属編成が乗り入れる伊豆箱根鉄道駿豆線は、伊豆半島西部を通る鉄道線だが、こちらは西武鉄道の傘下にある。東急と西武といえば、戦前から続く五島慶太と堤康次郞による覇権争いの一つと捉えることもでき、箱根山を挟んだ小田急と西武の「箱根山戦争」を彷彿させるのも興味深い。
いずれにしても、首都圏から手軽に行くことができるリゾート地である伊豆の観光開発が、在京大手私鉄グループの手によるものであることを、如実に表している一例といえよう。そして、そこへの観光客輸送は国鉄が一手に担っていたという部分でも興味深いところである。