いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
いつも楽しく拝読させていただいているブログ様で、時折ステンレス車について取り上げておられます。こちらの記事では、ステンレス車でもコルゲート板と呼ばれる波板をつけた、1980年代までにつくられた車輌を中心に書かれていて、かくいう私も「おお!なるほど!!」と思い、拙著でも取り上げてみたいなどと考えたこともありました。
加えて、夜間に撮影したため、コルゲート板の波が駅の照明に照らされ、その様子がよく分かる美しい写真とともに紹介されております。今時のステンレス車にはない、特徴的な美しさに思わず見入ってしまいました。
そこへ、ほぼ毎月購入しております鉄道趣味誌。今月号はなんと「東急7000系」の特集が組まれていました。内容を読んでいると、何とも懐かしい光景の写真がいくつもあり、幼き頃の思い出に浸りました。そして、ならば拙著でも取り上げてみますかということで、今回はこちらの写真からお話ししたいと思います。
こちらの写真は、1991年5月頃に撮影しました。場所は東横線新丸子駅。ご覧の通り、この頃はまだ複線のままで、左奥には多摩川園駅(当時。現在の多摩川駅)の前にある多摩川台公園の木々が生い茂っているのが見えます。
そして手前には、この当時できたばかりの保線用車両の基地も見えます。さらに、右側には線路沿いに建ち並ぶラブホの建物もありました。これは、かつて新丸子駅から武蔵小杉駅にかけて遊郭があった名残り。目黒線の延伸による複々線化のために、こちらの建物は立ち退きとなり、高架橋が拡幅されて線路用地へとなり、街並みもずいぶんと変わってしまいました。
この頃の東横線とは、まだ渋谷-桜木町間を走る路線でした。どちらも私鉄の起終点としての威容をもつ駅で、直通運転といえば中目黒駅から乗り入れる営団地下鉄日比谷線ぐらいなもの。
行先も下りなら「桜木町」か「日吉」「菊名」しかなく、上りも「渋谷」か「日比谷線直通・北千住」だけでした。朝のラッシュ後か深夜に「元住吉」止まりというのもありましたが、これは車庫に入庫するためのものでした。まあ、いたってシンプルだったので、誰でも覚えやすかったと思います。
とはいえ、もはや横浜駅に次いで「サグラダファミリア」と化した日吉駅は、この頃には工事が行われていましたが、まさか2020年になってもあちこち手を入れ続けるとは思いもしませんでした。
東急7000系と言えば、知る人ぞ知る日本で初となるオールステンレス車。いまでこそ、東急だけではなく、JRも私鉄も問わずオールステンレス車が一大勢力を築き上げていますが、その源流となるのがこの7000系でした。
ステンレス鋼は普通鋼と違い、加工が難しいとされていました。そのため、当時の日本の技術ではステンレス鋼だけで鉄道車両を製造することは困難でした。でも、当時の東急電鉄は、ステンレス鋼が錆びにくく劣化しにくいという特性に惚れ込んで、どうしてもオールステンレス車をつくりたいと考えたのです。
そこで、子会社であり製造を担当する東急車輌に、アメリカのバッド社との間にオールステンレス車を製造するための技術を導入させました。
かくして、ステンレス鋼を加工する技術を獲得した東急車輌は、日本初のオールステンレス車となる7000系を開発しました。といっても、バッド社の特許ライセンスを使うために、あまり自由度はなかったようですが、それでも画期的な車両だったことには間違いありません。
幼少の頃、たまに東横線に乗るときは、この銀色でピカピカに輝く7000系に乗るのが楽しみでした。複巻電動機独特の甲高いモーター音に、ドアを開閉させるためのドアエンジンから漏れる空気圧の音も、後年によく乗った8000系にはないものでした。
そして、なんといっても線路際から見る7000系は、ピカピカに輝くディスクブレーキを剥き出しにしたパイオニアⅢ台車は、子ども心に強烈な印象を与えてくれました。
後年、電装系を換装して7700系となったり、一部は地方の私鉄へと渡ったりしましたが、ごく一部を除いては今なお現役で走っています。耐候性に優れたステンレス鋼と、劣化しにくい構造設計である7000系ならでは「生き方」なのかもしれません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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