新年あけましておめでとうございます。
昨年は多くの方にご愛顧いただき、ありがとうございました。本年も、変わらぬご愛顧いただきますとともに、ご指導ご鞭撻のほどお願いいたします。
さて、新年といえば縁起物です。その中でもめでたいというか、日本を代表するものとして富士山が挙げられると思います。世界からも日本の富士山の美しさは知られており、日本を訪れた観光客の多くは一度は目にしたいと考えられるようです。
そのことはいろいろな立場であっても同じようで、かつて筆者が鉄道マン時代に関わりが深かった在日米軍の徽章には、鳥居と富士山が描かれています。彼らにとっても「日本」というとこの二つを真っ先に思い浮かべるのかも知れません。
それだけ日本を象徴する富士山。列車の名前になっていても不思議ではありませんが、つい最近までは使われていませんでした。というよりは、かつては使われていた列車の愛称でしたが、列車の廃止とともに使われていなかったのです。
今日、富士山の名を冠する列車は、小田急電鉄が運転する新宿-御殿場間の特急「ふじさん」があります。こちらはもともとは「あさぎり」という愛称の列車で、小田急電鉄の車両が御殿場線へ乗り入れる「片乗り入れ」の列車として運転されていました。運転開始当初は、当時の御殿場線が非電化だったこともあって、全線が電化されている小田急としては珍しい気動車を製造して運転していました。
その後、御殿場線が電化されると、3000形SSE車に換えられて運転されました。1987年の国鉄分割民営化では、御殿場線を継承したJR東海との新たな協定によって、小田急は20000形RSE車を、JR東海は371系を用意して相互乗り入れになりました。運転区間も沼津まで延長されましたが、2012年には再び小田急からの片乗り入れとなり、2018年から伝統ともなっていた「あさぎり」を「ふじさん」に解消して今日に至っています。
とはいえ、もともとが異なる名称で、かつ私鉄からの乗り入れ列車なので、歴史は古いのですが愛称の変更によって誕生した経緯を持つことを考えると、少しばかり違う気がします。
前置きがかなり長くなってしまいましたが、やはり「富士山」を象徴する列車といえば、かつて東海道・山陽・鹿児島・日豊線を走り抜けた東京対九州間寝台特急の一員だった「富士」でしょう。
分割民営化直後は国鉄時代の体裁をそのまま引き継いでいたので、伝統の列車である「富士」も単独で運転されていた。先頭に立つ下関所属のEF66には、牽引機がEF66へと換えられたのとともに、戦前に展望車に掲げられていた富士山型のヘッドマークへと変わっていた。
1987年5月頃 大井町-大森 8レ EF66 48【関】(筆者撮影)
東京を発車すると夜の東海道・山陽線を走り抜け、翌朝には九州島内へと入り鹿児島・日豊線を経て宮崎まで、そしてその昔は西鹿児島までを結んで、日本で最長距離を走る旅客列車の記録を保持していました。九州島内では東海岸の各都市を結ぶ役割を担っていた、国鉄にとってもかつての旅行者にとっても重要な役割を担った列車でした。
筆者も鉄道に興味をもった幼少の頃、まず最初に覚えたのがこの「富士」だったのです。当時、九特を牽いていたのはEF65 500番代P形で、その前面に誇らしげに掲げられた富士のヘッドマークは、円形に富士山の形をモチーフにしたデザインで、縦書きで漢字で「富士」と書かれていたのが強烈に印象に残ったのでした。
その「富士」。ルーツを遡ると、なんと戦前の、それも鉄道開業の頃の特急列車にまで行き当たります。
そもそも日本で特急列車を走らせ始めたのは、1912年の第1・2列車でした。新橋(後の汐留)-下関間を走破する列車として、一等車と二等車だけを連結した特別急行列車でした。当時は等級制で、運賃も等級別に設定されていましたが、三等車にくらべて割高に設定されていました。それに加えて、特別急行券も購入しなければならず、一般庶民が気軽に乗れるような列車ではありませんでした。この列車を利用できるのは、当時の著名人がほとんどで、あとは高級官僚や高級軍人といった極々一部の人たちだけだったのです。
その第1・2列車は、単に東京と山陽および九州を結ぶ列車としてだけではなく、当時は日本の統治下に置かれていた朝鮮半島を走る朝鮮総督府鉄道を結ぶ関釜連絡船を経た連絡列車として、さらには中国内の鉄道とロシア領内のシベリア鉄道を経由して、パリやロンドンへと至る連絡運輸の一端を担うという、今日では考えられない長大な鉄道網の一部となっていたのでした。これは、今日のように民間航空がなく、国際的な移動には専ら客船を中心とした船舶がその役割を担っていたのですが、ユーラシア大陸は地続きで鉄道も発達していたことや、沿線の国ではそれによる外貨獲得の機会もあったことから、こうした国際列車の連絡運輸が盛んだったのです。
そんな壮大な輸送の一端を担う第1・2列車は、1914年に始発駅が東京駅へと変わりました。かねてから建設が続いていた中央停車場が開業し、駅名も東京駅となったことで、第1・2列車も始発駅を新橋から変更したのでした。
さらに1929年には、列車を運行していた鉄道省により、特別急行列車に愛称をつけようと公募が実施され、第1・2列車には「富士」という愛称がつけられたのでした。
しかし順風満帆に見える「富士」も、これまでに幾つかの災難に見舞われました。
「富士」という愛称がつけられるよりも3年前の夏、海田市駅付近の築堤が流失してしまったところへ、第1列車がこれを通過してしまい脱線転覆するという事故を起こしたのでした。これは、この年の9月に入ってから日本各地で風水害の被害が多発し、広島県も9発11日に集中豪雨に見舞われて、河川の決壊などの被害が発生し、山陽本線の築堤も流失していたのでした。
関門トンネル開通初日に門司駅に到着した特別急行列車「富士」。当時は一等と二等のみで編成され、文字通り「特別」な存在の列車で庶民にとっては雲の上の列車だった。それでも愛称がつけられたことで、最後尾に連結された展望車には愛称版も設置され、今日の特急列車に愛称がつけられることのルーツとなった。写真はマイテ49で、「富士」の愛称版が取り付けられている。(英語表記のルビは「FUJI」ではなく「HUZI」であることにも注目)
出典:ウィキメディア・コモンズ ©大阪毎日新聞社 / Osaka Mainichi Shinbun, Public domain
この当時の第1・2列車は、一等車と二等車のみで編成されたはいたものの、すべて木造客車で組成されていたため、脱線転覆した車両はことごとく大破し、34名の犠牲者を出す惨事となってしまいました。また、第1・2列車は一等車と二等車で編成された特別急行列車だったので、乗客は著名人や高級官僚など社会的に地位が高い人たちだったため、当時の鹿児島市長をはじめとする多くの犠牲者がこうした人々であったことも、社会を震撼させたといいます。
事故の翌年には、特別急行列車の象徴ともいえる、最後尾に連結していた一等展望車の連結を神戸までとされ、神戸ではこの車両を切り離すことになりました。これは、神戸で切り離した展望車を昼間に走る急行第7・8列車に連結させるためで、第1・2列車線用だった展望車は、格下の急行列車と共用するという措置は、ある意味第1・2列車にとっては屈辱的だったといえるでしょう。
こうした波乱を経て、第1・2列車には「富士」という愛称をつけられましたが、それでも一等車と二等車のみで組成されていることは変わらず、事故を契機に木造車から鋼製車に置き換えられ、最後尾に連結された展望車には愛称版が取り付けられたとはいえ、やはり「特別」急行列車としての地位は変わることはなかったのでした。
《次回へつづく》
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