旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から SM分離間もない1981年8月の新鶴見機関区

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 「SM分離」という言葉をご存じの方は、おそらく筆者と同じかそれ以上の年代の諸兄かと思われます。

 その昔、横須賀線の列車は東海道本線と同じ線路を走っていたようですが、首都圏の人口が爆発的に増えた結果、国鉄の路線はどこも混雑がひどくなり、定時運行を確保するのがやっとという状態になりました。

 そこで、これら増加の一途をたどり続ける通勤客を少しでも捌くため、国鉄は「通勤五方面作戦」という名の計画を推進し、混雑緩和と輸送力増強に努めますが、その中で東海道本線横須賀線の列車が同じ線路を走るという状態を解消し、それぞれ別の線路を走るように改めたのが「SM分離」でした。

 この「SM分離」により、横須賀線は鶴見ー大船間は貨物線として使われていた線路へと移されるとともに、東海道本線は横浜ー戸塚間にある保土ヶ谷は通過となりました。また、品川ー鶴見間は貨物線である品鶴線を転用し、横須賀線の列車は川崎を通らずに新鶴見操車場に沿って北上し、現在の武蔵小杉付近で東へと進んで品川へ入り、そこから東京へは新たに建設された地下線(東京トンネル)を経て東京で総武快速線と直通するようにしました。このルートの変更によって、新鶴見操車場の近傍には川崎通過の代替となる新川崎駅が新たに設けられました。また、鶴見ー戸塚間には新たな貨物線が建設され、鶴見から内陸部となる横浜市の住宅街の地下を通り、東戸塚付近で元のルートへと合流するようにしました。この貨物線の建設によって、途中、神奈川区の北部には横浜羽沢駅を設置し、従来は保土ヶ谷や高島で扱っていた貨物を集約するとともに、荷物輸送においては東海道側の拠点としての機能をもたせる荷貨物のターミナル駅として開業しました。

 こうして「SM分離」によって横須賀線の列車は大きくルートを変えましたが、筆者がその当時住んでいたところは新鶴見操車場からほど近い場所にあったので、新川崎駅の開業は非常に大きな出来事と捉えたのでした。何しろ、近隣の国鉄駅といえば黄色い101系だけが(たまに103系もいましたが)のんびりと行き来する南武線があるだけで、しかも最寄りとなる駅といえば矢向か鹿島田でしたが、そのどちらも地理的には中途半端な距離でした。しかも中距離電車に乗りたければ、このどちらかの駅まで行ってから川崎で乗り換えなければならなかったのが、新川崎ができてからは直接中距離電車に乗ることができ、しかも南武線のよりも近くになるので、時折カメラを片手に駅撮りを楽しむという鉄道少年だった筆者にとってはまさに歓迎するできごとだったのです。

 その新川崎が開業して間もない頃の夏休み、何を思い立ったか新鶴見機関区で写真を撮らせてもらおうと出向いたことがありました。鉄道マンになってから知ったのですが、鉄道の構内はかなりの危険が伴う場所なので、今となってはなんと恐ろしいことをしたのだと恥ずかしくもなりますが、それは1980年代半ば頃のお話で、国鉄の現場でも外来者の訪問はよほどのことがなければ門前払いなどせず、現場の助役の判断で一般の来訪と見学は許されていたという、なんとも羨ましい限りののんびりとした時代だったのです。

 かくいう筆者も、鹿島田跨線橋から機関区構内に通じる階段を必死になって降りていき(ここから入ること自体、かなりの勇気が必要でした)、構内の通路を通って跨線橋から見える庁舎へと向かいました。

 この庁舎は後に貨物会社に入社してから知るのですが、運転庁舎と呼ばれる建物で、機関区の運転部門が入っているところでした。すなわち、ここは機関車を動かしている機関士と、その運用を担っている運転部門の職員、そして運転助役が詰めていて、とにかく昼夜を問わず忙しい部署でだったのです。そんなことを知らない筆者は、そこの運転助役に見学したい旨を申し出るのですが、そこにたどり着くまでにすれ違う職員のだれもが小学生が入り込んでいても見咎めることもせず、ただただニコニコとしながら「よく来たな」なんて声をかけてくれる人もいたのですから、やはりのんびりとしたいい時代だったのでしょう。

 運転助役に見学を申し出ると、助役は「一人で来たの?」なんて聞きながら、大学ノートを差し出して名前と連絡先を書くように言いました。見学者の名簿のようなもので、多くの人の名前などが書いてあったので、恐らくはこうした見学者が来るのは機関区にとっては当たり前になっていたのでしょう。今日では安全確保とテロ対策などなど様々な理由で、鉄道施設、特に運転区所の見学はよほどのことがない限り*1門前払いにされてしまうので、やはり良くも悪くもノンビリとしたいい時代だったのだと思い知らされます。

 

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EF65 23【稲二】(左)とEF65 10【吹二】 1981年8月 新鶴見機関区(筆者撮影)

 

 こうして少しだけ手空きになっていたであろう助役さんに案内されながら、鉄道少年だった筆者はカメラ片手に機関区構内を見て歩きながら、思い思いの写真をとることができたのでした。

 この頃の人気の電機といえばやはりEF66でしたが、多くは東京タや汐留まで走り、前者の場合は大井機関区に、後者の場合は東京機関区へ留置されることが多いので、新鶴見にはあまりやって来ませんでした。それでも、稀に新鶴見にやって来るようで、「今日はロクロクは来ていないな~」なんて、助役さんにいわれたのを思い出します。助役さんにしてみれば、せっかく来たのだから国鉄自慢の電機を見せたかったのでしょう、駅とは違い機関区や操車場のような現場に人たちはほとんどの人が人情味溢れる方が多かった気がします。

 さて、写真は東機待線群に留置されているEF65です。

 写真では見にくいかも知れませんが、左が23号機、右が10号機でした。

 10号機は1965年に昭和39年度第一次債務車として川崎車輌(現在の川崎重工車両カンパニー)と川崎電機製造(現在の富士電機)のコンビで落成、新製配置は吹田第二機関区でした。この写真を撮影した1981年当時も吹田第二区配置のままで、この後、国鉄分割民営化を控えた1986年に沼津へ配転されます。しかし、それから1年後の1987年に余剰車として廃車、所有は国鉄清算事業団へと移されました。

 しかし、民営化後に発足したJR貨物は、折からの好景気で輸送量が増加の一途を辿り、輸送力増強を図るべく列車の増発を実施。機関車の所要数が不足するため、清算事業団保有している廃車となったEF65の中から状態がよく、かつ整備を実施することで現役に復することが可能な車両を購入。その一員として、1989年に車籍を復活させて稲沢機関区に配置され、そのまま東海道山陽線の貨物列車を中心に活躍しました。1994年に後継となるEF200の増備が決まり、その役割を終えて稲沢を最終配置として再度廃車となったのでした。

 もう一つの23号機は10号機のように「幸運」を手にすることはありませんでした。

 23号機も1965年に昭和39年度第一次債務車として東芝で落成、稲沢第二機関区に新製配置されました。東海道山陽線をはじめ、関西圏や首都圏の貨物列車を牽く任にあたり、終始稲沢二区から離れることなく、1987年に民営化に伴う余剰車の整理対象となって廃車となり、車齢22年と鉄道車両としては短い生涯に幕を下ろしたのでした。ただ、10号機のように車籍復活の対象にはならなかったようで、恐らくは機関車の状態があまり芳しくなかったのではないかと推測されます。

 このように、運命はどう転ぶかはわからないものですが、同時期に誕生した二つの機関車が、こうして80年代初めの夏の空のもとで並んで留置されている姿を捉えたショットは、今となっては貴重だといえるでしょう。

 この写真を撮影してからちょうど10年後、筆者はまさか貨物会社に入るとは露ほども知らず、しかも自分が配属された区所ではこの新鶴見機関区が保守管理の管轄で、ブルーの作業着に黄色の安全ベストを着て、黄色いヘルメットを被ってこの構内を縦横無尽に歩き回るなど想像もしていませんでした。しかも、10号機にいたっては車籍復活とはいえ、同じ時期に同じ会社に在籍していたので、こうして機待線に留置されている姿は何度も見たものです。

 運命とは人間もそうですが、この機関車たちのように鉄道車両にとっても、先のことはわからないものだと、改めて思わずにはいられないでしょう。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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*1:後年、2000年代に新鶴見機関区の見学をさせていただいたが、事前に本社や支社、そして機関区と綿密な調整を経て実現できた。当然、身元のはっきりしない者からの申し込みは受け付けないとのことで、筆者の場合は現在の職業とOBであること(いまだに筆者のことを知る職員が支社にいて、電話で「あの方ですか」とさえ言われた)からようやく許可を貰うことができた。そうそう簡単に見に行くことはできなくなっている。