旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

赤い尾灯を灯して貨物列車の殿を受け持った車掌車たち【6】

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《前回からのつづき》

 

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■「寒泣車」」に別れを! 戦後初の鋼製車掌車 ヨ3500形

 終戦直後にGHQの命令によって、国鉄は運転取扱規程を改定することになり、すべての列車の最後尾には緩急車を連結することを義務づけました。それは、旅客列車も貨物列車もその種別を問わず、言葉通りすべてであり、旅客列車は車掌が乗務し車掌弁を設置した車両を連結しました。一方、貨物列車は有蓋緩急車と車掌車を全部掻き集めても、必要な数を揃えることが難しかったため、もっとも古い木造有蓋車であるワ1形に必要最小限の設備を備える改造を施したヨ2500形を製作、これによって戦前に製造された車両と合わせて凌いだのです。

 しかし、出自は大正時代に製造され、それも鉄道国有化によって買収された私鉄が製作した雑多な貨車であったことや、戦時中の酷使によって車両そのものが老朽化し、しかも車体は木造であるため冬季の乗務は過酷を極めたと言われます。それ故、貨物列車に乗務する車掌からは嫌がられ、「寒泣車」と揶揄されるほど粗末な車両だったのです。

終戦直後の混乱も一段落し、徐々にではあるものの社会、経済ともに復興しつつあった  終戦から5年、1950年になると戦後の混乱も落ち着きを取り戻し始めました。新たな車両をつくるための資材も徐々にではあるものの手に入りやすくなりつつあり、加えてこの年の6月には朝鮮戦争がぼっ発したことによって、日本の経済は「朝鮮特需」と呼ばれる好景気になり、経済的な再建の足がかりになりました。

 そうした中、国鉄は新たな車掌車の新製と投入をすることにしました。特に間に合わせで増備したヨ2500形の老朽化は激しく、これに乗務する車掌の乗務環境を改善することは喫緊の課題でした。

 1950年から製造が始められた新たな車掌車であるヨ3500形は、戦前につくられたヨ2000形以来の久しぶりの新製車掌車であり、同時に鋼製車体をもったものでした。

 車体の基本設計はヨ2000形に準じていました。車両の両端には車掌たちが出入りに使うデッキを備えていました。屋根はデッキ部端まで伸ばされ、その手摺は鋼丸棒を組み立てたもので、ヨ2000形の設計を踏襲していました。

 側面の窓もヨ2000形と同じく、中央部に寄せた形で4個設けられるなど、外観は大きく変わりませんでした。

 車内も、車掌が使う執務机を外側を向くように配置し、そこに丸椅子を3個固定することで、同時に3人が事務処理をすることができるようになっていました。また、その反対側には車掌の休憩や荷扱手の待機に使うための、幅550mmのいわゆるロングシートも配置され、車内レイアウトもヨ2000形と同じでした。

 

 

 その一方で、車掌の乗務環境を改善するための設備ももっていました。車内に設置された電灯設備は、特に夜間の乗務での執務環境を大幅に改善させました。加えて、ヨ2000形では設置されていなかったストーブも、ヨ3500形えは新たに追加されました。冬季、それも冷え込みが厳しい夜間には、車外に出て作業をしてきた車掌が車掌車へ戻ってきたときや、気温が低い中を長距離・長時間に渡って走行する中で、彼らの冷えた体を温めるには十分なものであり、ある程度は快適に乗務できる事が可能になったのです。

 他方、走り装置は一段リンク式でした。ヨ3500型が登場した当時は、貨物列車の最高速度は65km/hであったことや、当時は競合脱線の要因としてシュー式や一段リンク式が高速走行時に蛇行動を起こすことがわかっていなかったこともあり、標準的な走り装置としてこの方式が使われました。

 ヨ2500形が有蓋車を急遽改造して制作したため、板ばねには手を加えられず硬いままでした。そのため、重量の重い貨物を積んだときには適したものの、人を乗せるには適したものではなく、当然、乗り心地は最悪だったといいます。

 

《次回へつづく》

 

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