《前回からのつづき》
■戦前の車掌車
日本の貨物列車に車掌車が連結されるようになったのは、1926年に初の車掌車であるヨフ6000形が登場してからだと考えられます。それまでは、有蓋車に車掌室を設置した有蓋緩急車や、無蓋車に同じく車掌室を設けた無蓋緩急車が最後尾に連結され、乗務する車掌の執務空間として使われていました。
これらの緩急車は、基本的に「車掌が乗れればそれで良い」とされたためか、室内の面積は必要最低限の広さしかなく、加えて木造車体であるため隙間風が車内に容赦なく入ってくることから、特に冬期は暖房もなく厳しい寒さにさらされたことから、「寒泣車」と揶揄されるほど過酷な乗務環境だったことが窺えます。
もっとも、このような構造の緩急車が多く作られた背景には、当時の鉄道車両のブレーキ装置が多く関係していました。緩急車はその名のごとく、ブレーキを緩急するための役割を担った車両でした。これは、黎明期の鉄道車両のブレーキ装置は車両個々に設置された手ブレーキが使われていたためでした。そのため、機関車と客車または貨車が数両程度であれば機関車のブレーキだけでも制動力を確保できましたが、車両の大型化(特に客車)や連結両数が増加すると、これだけでは必要な制動力を得ることが困難になりました。
そこで、編成中に手ブレーキ操作が可能な車両として緩急車が連結されるようになりました。客車の場合は客室内の一部にこれを操作するための部屋を設ければよいので、乗務する職員もそれほど過酷な環境にさらされることはありませんでした。しかし貨車の場合、貨物を積み込むためのスペースを確保しなければならないため、ブレーキ操作をする職員を乗せるスペースは必要最小限にならざるを得なかったのです。
この緩急車に乗務してブレーキ操作を担う職員を「制動手」と呼ばれていました。その名の通り、ブレーキ操作をすることを職務とした乗務員であり、列車の安全運行に欠かすことのできない存在でした。しかし、そのような重要な存在であるにも関わらず、労働環境は非常に過酷だったといい、特に冬期の貨物列車への乗務は制動手たちにとって困難を伴うものでした。
また、連結される緩急車の数や、これに乗務する制動手の能力によっても、ブレーキ力はまちまちでした。先頭の機関車に乗務する機関士にしてみれば、これほど運転操作をしにくいことはないものです。
こうした当時の車両事情を背景に、新たなブレーキの開発が進められました。機関車とこれに牽かれる客車や貨車が、機関士が意図したブレーキ力を編成に組み込まれるすべての車両が、確実にその制動力を発揮できる「貫通ブレーキ」が普及すると、編成中に何両もの緩急車を連結し、それぞれに制動手を乗務させる必要もなくなり、日本では1927年に緩急車は最後尾に1両だけ連結すればよいということになり、同時に車掌はそこに乗務して必要があれば車掌弁と呼ばれる非常ブレーキを作動させることになりました。
ところが、最後尾に車掌弁を備えた緩急車を連結し、車掌は1人だけ乗務するのであれば、従来の車両でも乗務環境の劣悪さを除けば事足りるものでした。しかし、この頃から小口貨物輸送を担う列車には、車掌だけでなく途中の停車駅で貨物の積み下ろしをする荷扱手を数人乗務させなければならなくなったため、旧来の緩急車では手狭どころか彼らを乗せることが難しくなったのでした。
そこで登場したのが、ヨフ6000形とヨフ7000形でした。この2つの車掌車は、客車の大型化によって余剰となった木造二軸客車を改造したもので、その大きさから「マッチ箱」とも呼ばれていたそうです。

初期の車掌車は、木造二軸客車を改造転用したものだった。これは、車掌の他に荷扱手も乗務するため、従来の緩急車では手狭になったことから専用の車両が求められたからだ。改造前は木造で二軸車とはいえ、客車であったことから従来の緩急車と比べものにはならないほど、乗務員の執務環境は改善された。特に冬季はストーブが設置されていたこともあって、ある程度快適な執務を可能にした。写真は桜木町駅に展示されている木造二軸客車の復元車両。(©Tanukimura, CC0, via Wikimedia Commons)
元々が客車だったので、これら2形式の車掌車には側窓が設けられていました。車内は客室の設備をすべて取り払い、代わりに車掌用の執務机と椅子を外側に向くように設置するとともに、荷扱手が待機するためのベンチシートが設置されていました。また、長距離の乗務を考慮したためか、車端部には便所も設置されていたほか、冬季の暖房として石炭ストーブが設置されていたことが図面から読み取れます。旧来の緩急車と比べると、貨物列車の車掌の乗務環境は格段に向上したのでした。
しかし、もともとが木造二軸客車を改造したものであり、その種車は鉄道国有化によって買収された私鉄車両を出自とするため、同じ形式を名乗っていても車両の寸法はもちろんのこと、室内の面積や形状も千差万別であり、非常に雑多なものだったのです。また、車体が木造であったため、一度事故が起きれば車両そのものが粉砕される可能性があったことや、遅かれ早かれ車体が劣化し老朽化が進むことが想定されていたといえるでしょう。
《次回へつづく》
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